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シャロン(Ariel Sharon)
しゃろん
Ariel Sharon
(1928―2014)
イスラエルの政治家。イスラエル中部クファル・マラル村に生まれる。イスラエル建国前の1942年、独立国家樹立を目ざす武装組織ハガナ(後の国軍)に入隊。第1次~第4次のすべての中東戦争に師団長などとして参戦し、多くの軍功をあげる。1973年の国会選挙に出馬して当選、政治家に転身した。1982年のレバノン侵攻を国防相として指揮、アラファト議長率いるパレスチナ解放機構(PLO)をチュニスに放逐した。この際、友軍のキリスト教徒民兵がパレスチナ難民キャンプで行った虐殺を「黙認」したことにより、パレスチナ人からは「殺人者」とよばれる。
1996年、ネタニヤフ政権の国家基盤相。1998年、外相。1999年には右派リクード党首に選ばれた。2000年9月、イスラム教徒が管理するエルサレム旧市街のユダヤ、イスラム両教の聖域「神殿の丘」(イスラム教徒側の呼称は「ハラム・アッシャリフ」)を訪問しパレスチナ騒乱を招いたが、徹底した治安対策を訴え、2001年2月の首相公選で労働党のバラクを破り首相に就任した。2005年9月に占領地ガザからのイスラエル軍撤退を実現する一方、ヨルダン川西岸については主要なユダヤ人入植地を維持し、イスラエル本土との境界から西岸の東側に食い込む分離フェンスを建設するなど、強硬策を推進していた。2005年11月、ガザ撤退をめぐるリクード内の路線対立から同党を離脱、新党カディマ結成を表明した。2006年1月脳卒中に倒れ、政界を引退。
[相原 清]
『キマーリング,バールフ著、脇浜義明訳『ポリティサイド―アリエル・シャロンの対パレスチナ人戦争』(2004・柘植書房新社)』
シャロン(Pierre Charron)
しゃろん
Pierre Charron
(1541―1603)
フランスのモラリスト。弁護士ののち僧職につき、説教家としての才能を発揮した。『キリスト教講話』(1589~1604)や『三つの真理』(1593)は、反宗教改革の立場によるキリスト教護教論である。後代に懐疑思想家と考えられたのは、その著書『知恵について』(1601)による。これは、40歳ごろに友人となったモンテーニュの影響のもとにストア哲学を体系的に整理したもので、ストア哲学と懐疑論が17世紀前半のフランスに受け入れられる素地をつくる役目を果たした。
[香川知晶 2015年5月19日]
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シャロン
Sharon, Ariel
[生]1928.2.26. イギリス委任統治領パレスチナ,クファルマラル
[没]2014.1.11. イスラエル,ラマトガン
イスラエルの軍人,政治家。首相(在任 2001~06)。旧名 Ariel Scheinerman。イギリス委任統治下のパレスチナで,ロシア系移民の家族のもとで育つ。14歳でユダヤ人地下軍事組織ハガナーに入った。1948年のパレスチナ戦争(第1次中東戦争)に若手将校として従軍以来 4次にわたる中東戦争に参戦,数々の軍功を上げた。1973年にいったん軍を退き,右派政党リクードの結成にかかわる。十月戦争(第4次中東戦争)勃発を機に軍に復帰,戦況を有利に転換させたことから英雄として名をはせる。1982年国防大臣に就任し,レバノン侵攻作戦を指揮するが,その際にパレスチナ難民を虐殺したことが発覚し辞任(→レバノン内戦)。その後リクードを中心とする右派政権下で閣僚を歴任する。1999年リクード党首となり,2000年にエルサレム旧市街にある「神殿の丘」の視察を強行,これをきっかけに,1993年のパレスチナ暫定自治協定締結以来かろうじて続いていたパレスチナ解放機構 PLOおよびパレスチナ暫定自治政府との和平プロセスはとだえた。2001年の首相公選で現職のエフド・バラクを破り,首相に就任。首相としてパレスチナ人のイスラエルに対するテロに対しては強硬姿勢をとった。一方,2003年にガザ地区および一部ヨルダン川西岸地域の入植地を撤去し,イスラエル軍を撤退させると公表しリクード内部の激しい反発を招いた。2005年9月に入植地撤去を完了し,11月にリクードを離党して新党カディマを結成した。2006年に脳卒中で倒れ,意識が戻らないまま死亡した。
シャロン
Charron, Pierre
[生]1541. パリ
[没]1603.11.16. パリ
フランスの哲学者,カトリック神学者。ソルボンヌなどで学び法律家として世に出たが,のちに神学に転じ成功を収めた。 1589年修道院に入ろうとしたが年齢ゆえに拒まれた。同年モンテーニュと知合い親交を結びかつ師と仰いだ。『三つの真理』 Les trois vérités (1593) は人間理性の弱さと神の無限性を対比させて信仰によるキリスト教受容を主張してカルバンの改革派神学を反駁,対抗宗教改革の一翼をになった。主著『知恵について』 De la sagesse (1601) ではモンテーニュ流の懐疑論を展開し,懐疑は精神を空白にして啓示を受入れる下地をつくり,あるいは自然に従って生きるように導くとして,懐疑と宗教の両立を説く一方,近世史上初めて宗教から独立した自然道徳論を展開,17世紀フランス,イギリスの自由思想家に影響を与えた。
シャロン
Sharon
アメリカ合衆国,ペンシルバニア州西部,オハイオ州境のシェナンゴ川東岸の都市。 1802年頃に水車集落として始り,44年エリー運河の延長,ペンシルバニア運河の完成によって製鉄業の中心となった。鉄鋼,変圧機,その他の鋼製品の製作が主産業である。ブールパークやシェナンゴダム付近は,市民のレクリエーション地域。人口1万 7493 (1990) 。
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シャロン
Pierre Charron
生没年:1541-1603
フランスのカトリックの宗教思想家,モラリスト。パリに生まれ,パリ,モンペリエで法律を学んだのち弁護士として立ったが,1576年以降説教家としてフランス各地を巡って名声を博し,主としてボルドー市にあった80年代にはモンテーニュと親交を結び,その相対主義的な人間考察に多くを学ぶ。96年にパリにもどり,没。著作にはいくつかの論説集,説教集があるが,主著のひとつ《三つの真理》(1593)は,無神論者にたいして宗教の必要性を,異教徒にたいしてキリスト教の真実性を,またプロテスタントにたいしてカトリック教会の正統性を説くキリスト教弁証論であり,これは国王アンリ4世の旧教への改宗(1593)による宗教戦争の収束と王権の確立に同調する。また代表的著作《知恵について》(1601)は,モンテーニュから古代世界の事例を借用しつつ,懐疑主義的な知的探索の方法をも模倣して,人間の情念,徳性,英知等について分析,分類,体系化を試みるものである。これは,その師にひきつづき,人間の性質,行動について省察を加えその表現化に工夫をこらす〈モラリスト〉の文学を支える仕事であるとともに,やがて確立されるべき合理主義的な世界理解の方式を生み出す基礎作業であったとも見なされる。17世紀前半期におけるこの書物の多数の重版と翻訳は,時流のそのような傾向を物語るものであろう。
執筆者:荒木 昭太郎
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シャロン
イスラエルの軍人,政治家。クファルマラル生れ。ヘブライ大学,テルアビブ大学に学んだ。右派のリクード所属国会議員となり,1981年―1983年に国防相となって1982年のレバノン侵攻作戦を指揮した。1990年―1992年建設・住宅相としてヨルダン川西岸などのユダヤ人入植地拡大を推進した。1998年―1999年外相,1999年9月リクード党首,2001年2月の首相公選でバラク首相(労働党党首)を大差で破って当選,2001年3月に大連立内閣を組閣した。対アラブ強硬派で,パレスティナ自治政府・PLOには対決姿勢をとったが,ガザ地区のユダヤ人入植地撤回計画を示して少数与党,単独与党に転落した時期もあった。2005年にリクードを離党し,中道系新党の〈カディマ(前進)〉を結成して党首となったが,病気で倒れ,E.オルメルトに権限を譲り,2006年3月政界引退。2014年1月脳卒中で死去。国葬が営まれた。
→関連項目イスラエル
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