日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボイボディナ」の意味・わかりやすい解説
ボイボディナ
ぼいぼでぃな
Vojvodina
セルビア共和国内の一自治州。セルビアの北部を占める。州都はノビ・サド。クロアチア、ハンガリー、ルーマニアと国境を接し、南西部のスレム、中央部のバチュカ、東部のバナートの3地区からなる。面積2万1506平方キロメートル、人口203万1992(2002)。セルビア人が54%を占めるが、ほかにハンガリー人(18%)、スロバキア人、ルーマニア人、ドイツ人、ブルガリア人、アルバニア人、ロマなど多様な民族が住む。少数民族はそれぞれの学校、新聞、劇場、文化団体を有する。パンノニア大平原の一部をなし、ドナウ川とティサ川が合流する。ティサ川流域は大平原のもっとも低い地域であるためしばしば洪水にみまわれるが、肥沃(ひよく)である。また、温暖な大陸性気候にも恵まれ、ドナウ―ティサ―ドナウの水路完成によって農業はさらに発展した。麦、トウモロコシ、テンサイ、ヒマワリなどを産する。近年は工業も発達し、とくに農業機械や造船、オートバイや自転車の生産で知られる。
[田村 律]
歴史
7世紀に南スラブ人が定住し始めた。9世紀にはハンガリー人がこの地方を統治。オスマン帝国(トルコ)がバルカンに進出すると、オスマン帝国とハプスブルク帝国との国境地方となる。17世紀の末トルコの圧政を逃れたセルビア人がハプスブルク家の許可を得てこの地に移住、国境警備と開発に従事した。18世紀なかば、カトリックへの改宗ないし東方帰一教会(東方教会に属していたがローマ教皇の権威を認めるようになった教会)を拒んで大勢がロシアへ去ったのち、ドイツ人、ハンガリー人らが来住し、モザイク状の民族分布をなすに至った。だが1713年から1918年までセルビア総主教座が同州のスレムスキ・カルロブツィSremski Karlovci(1699年にカルロウィッツ条約が締結された町)にあり、19世紀にはノビ・サドを中心にブルジョアジーが形成されたことから、セルビア近代の文化と経済に重要な役割を演じた。1918年ボイボディナ議会は新生ユーゴスラビアに加わることを決議し、統一された。第二次世界大戦後は旧ユーゴスラビアを構成したセルビア共和国の自治州となり、1992年新ユーゴスラビア(2003年に「セルビア・モンテネグロ」)に移行し、2006年からは独立国家となったセルビア共和国の一自治州である。
[田村 律]