改訂新版 世界大百科事典 「テンサイ」の意味・わかりやすい解説
テンサイ (甜菜)
beet
sugar beet
Beta vulgaris L.var.rapa Dumort.
サトウダイコン,ビートとも呼ばれる。サトウキビと並ぶ重要な糖料作物で,サトウキビの育たない温帯,冷涼地で栽培される。アカザ科の越年草で,地中海東岸から西アジア地域の原産。フダンソウ,カエンサイ(テーブルビート),飼料用ビートなどと同類で,テンサイの原作物は飼料用ビートから改良されてできた。
ふつう春にたねをまき,北海道では下葉が枯れてきた10月中旬~下旬から収穫する。1個のたねは3~5花の集合によって生じた果実(球果とよばれる)で,複数の種子を含んでいるため,発芽に際しては数本の苗がかたまって出る。品種改良の結果,一つのたねに一つしか種子をもたない品種が作られ,間引き作業の労力が軽減された。根は直径10~15cm,長さ30cm,重さ0.5~1kgの紡錘形に肥大する。根の両側面には縦溝があり,そこからひげ根が出ている。内部は白色ないし黄白色で,9~12層の同心円状の輪層がある。収穫期の根の糖分含量は15~20%,ときに28%に達する。冬は葉の大部分は枯れて越冬し,翌春から茎が伸びて高さ1~2mになり,初夏に小さな黄緑色の花を多数つける。
18世紀になって飼料用ビートの肥大した根に,糖分が含まれて甘いものがあることが注目され,1747年にドイツで初めてこれから試験的に砂糖をとることに成功した。90年に抽出法が開発され,1803年には,最初のテンサイ糖工場がドイツに作られた。ひきつづきフランスでも,ナポレオンの奨励のもとに,多数の工場の建設が進められた。しかし19世紀になって西インド諸島でサトウキビの大規模な生産体制が確立し,ヨーロッパへ砂糖が輸入されるようになって,テンサイ工業は一時下火になった。43年に西インド諸島で奴隷制度が廃止され,サトウキビ産業の労働基盤が打撃をうけたのにともない,再びヨーロッパでのテンサイ糖産業が復興した。19世紀末から第1次世界大戦ころまでは,サトウキビから作ったカンショ(甘蔗)糖とテンサイ糖はほぼ同量の生産があった。近年も年間約2.7億t(生の根)の生産があり,世界の砂糖需要の約40%を供給している。ヨーロッパが全世界の生産量の約53%を占め,主産国は旧ソ連,アメリカ,フランス,ポーランド,ドイツ,イタリアなど。日本には明治初年にヨーロッパから導入され,1888年に,北海道に札幌製糖会社が設立された。明治時代には栽培がうまくいかず,その生産は停滞していたが,第1次大戦での砂糖不足を契機として栽培に力が入れられるようになった。第2次大戦中には一時衰退したが,戦後再び栽培が盛んになり,一時は北海道だけでなく,暖地ビートのかけ声のもとに九州にまで広く栽培が試みられた。しかし,貿易自由化によって安価な輸入カンショ糖に圧迫され,病虫害問題もからんで,本州以南での暖地ビート栽培は消滅した。北海道に約7万ha(1995)が栽培されている。
収穫したテンサイの根は,先端の尾状部分と肩から上の葉つきの部分を切り捨て,根を細片にし,温水抽出法によって糖汁をとる。これを濃縮し,不純物を除去すると清浄な糖液になる。冷却,結晶化させて白下糖とし,遠心分離して廃糖みつを除き,得られた分糖みつを精製,結晶させてテンサイ糖を得る。抽出かす(ビートパルプ)は廃糖みつと混ぜて家畜の飼料とする。廃糖みつはアルコールやイーストの製造に利用される。
執筆者:星川 清親
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報