高級スポーツカー製造ならびに車両一般設計・コンサルタントを業務とするドイツの会社。本社所在地はドイツのシュトゥットガルト。一族であるポルシェ家とピエヒ家が基本株式の100%と優先株式の25%を所有する家族企業。
前身は、1948年オーストリアのグミュンデに設立されたポルシェ合資会社。設立者フェルディナンド・ポルシェFerdinand Porsche(1875―1951)は、当時のオーストリア・ハンガリー帝国領ボヘミア(現、チェコ)の生まれ。最初は父親の職業である板金工の訓練を受けるが、技術的才能を生かしてウィーンの電気会社に入社し電気工となる。23歳でホーフ自動車会社に移り、自動車製造にかかわる。1900年のパリ自動車ショーに電動モーター搭載車を出品し注目を浴びる。レースカーや重量トラクターの設計・製造にも従事。1906年、オーストリア・ダイムラー社に移り、ガソリンエンジンを発電に利用した電動モーター車、航空機やバスのエンジン開発に従事するとともに、自ら設計したレースカーは数々のレースで優勝する。1916年に同社社長に就任、1923年にはシュトゥットガルトのダイムラー本社に技術部長兼取締役として移る。1926年、同社がベンツ社と合併するとベンツ側と技術開発で軋轢(あつれき)が生まれ、1929年にウィーンの自動車会社に制作主任として迎えられるが、ここでも開発費問題で衝突する。
1931年、長男フェリーFerdinand Anton Ernst Porsche(1909―1998、父と同名ゆえ愛称Ferryが通称となる)ならびに長女ルイゼLouise Piëch(1904―1999)の夫アントン・ピエヒAnton Piëch(1894―1952)も参加し、シュトゥットガルトに自動車設計・コンサルタント事務所を開設。この時代に後のフォルクスワーゲン(VW)車に採用される空冷方式や後尾エンジン方式を完成する。
1933年ヒトラーが政権につくや、初代ポルシェは国民車構想を打ち出す。翌1934年、同じオーストリア出身のヒトラーからその設計を委託され、カブトムシ型のVWを設計するとともにウォルフスブルク工場で製作を指導する。第二次世界大戦中は、政府の戦車委員会委員長も務め、タイガー戦車を設計するとともに陸軍の委託で設計した野戦用四輪駆動車も開発する。四輪駆動車は好評で大量生産される。
戦争末期は、オーストリアのグミュンデの試作工場で車両修理などで生計をたてる。戦後短期間アメリカ軍に逮捕され、その後戦時中ルノー社にかかわったという容疑でフランスに2年間抑留される。1948年、無罪で釈放されるが抑留中に体調を崩す。同年息子のフェリーが中心となり開発したスポーツ車356型の製造にむけてポルシェ合資会社を設立した。
1949年、かつて制作したVW車が量産体制に入ると、フォルクスワーゲン社とロイヤリティーおよび部品供給契約を締結し、356型量産のため1951年にポルシェ有限会社とした。同時に本社をシュトゥットガルトに移す。同年、ドイツ車として戦後初参加のル・マン24時間耐久レースで356型が1.1リッター・クラスで優勝した(初代ポルシェは、この優勝をみることなく同年1月死亡)。
1964年発表の911型制作においては、フェリーの長男アレクサンダーFerdinand Alexander Porsche(1935―2012、祖父・父と同名。アレクサンダーはミドルネーム)がデザインを担当し、ピエヒ家の次男フェルディナンドFerdinand Piëch(1937―2019)がエンジン・テストに参加し、同車を完成する。現在も主力車種である911型は1966年と1967年にスポーツカー世界選手権に連続優勝、1970年ル・マンで総合優勝するとともに、この年に参加したレースで10戦9勝の成績をあげ、スポーツカー・ポルシェの名声を不動のものとする。
1974年には、フォルクスワーゲン社がスポーツカーとして開発したが生産に至らなかった924型の生産・販売を引き継いだ。これは、後の968型の原型となっている。もう一つの主力車種8気筒の928型を1977年に発表する。また、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)に採用されたレオパルド戦車の基本設計を行い、1980年には旧ソ連の国営自動車会社ラダーの開発委託を受ける。
1984年に優先株を株式上場し、設備増強を図るが、1985年のプラザ合意でマルクの切上げがあり、市場の60%を占めるアメリカでの販売が不振に陥る。1985年の売上げ32億マルク、従業員7900人が同社の最盛期で、1990年代に入り激しい国際競争下において、生産台数は、かつての年間3万台ペースから1990年代末には1万台に落ちた。
1973年、株式会社に転換して持株会社となり、設計、製造、販売の各部門を子会社化したが、会社運営方針の対立から、その前年の1972年にフェリーの長男アレクサンダー、ピエヒ家のフェルディナンドが会社を去る。ピエヒ家のフェルディナンドは、後にフォルクスワーゲン社に吸収されるアウディ社に移り、その後フォルクスワーゲン社社長となった。フェリーは1990年まで監査役、その後名誉監査役会長(1998年没)。監査役会12名のうち、経営側の6名にポルシェ家とピエヒ家からそれぞれ2名が名を連ねた。
2005年からフォルクスワーゲンに資本参加し、2008年3月には株式の51%を獲得して子会社化を表明したが、負債と資金繰りの行き詰まりのため果たせず、かえってフォルクスワーゲン主導で経営統合される情勢となった。2018年度の販売台数は25万6255台、従業員数は3万2325人。売上高は257億8400万ユーロ、営業利益42億8900万ユーロ。
[大西健夫]