現代外国人名録2016 「マハティール・モハマド」の解説
マハティール・モハマド
Mahathir Mohamad
- 職業・肩書
- 政治家 プロトン・ホールディングス会長 元マレーシア首相,元統一マレー国民組織(UMNO)総裁
- 国籍
- マレーシア
- 生年月日
- 1925年12月20日
- 出生地
- マラヤ連邦アロールスター(マレーシア)
- 本名
- マハティール・ビン・モハマド〈Mahathir bin Mohamad〉
- 学歴
- エドワード7世医科大学(現・シンガポール大学医学部)〔1953年〕卒
- 学位
- 医学博士〔1953年〕
- 受賞
- 理化学研究所名誉フェロー(日本)〔2007年〕
- 経歴
- 在学中の1946年統一マレー国民組織(UMNO)の結成に参加。’53年大学卒業後医務官となるが、政治活動をするため開業医に。’63年連邦国家マレーシアが独立。’64年下院議員に初当選。’65年UMNO最高評議会委員に当選。’69年5月の中国系とマレー系の衝突事件の解決策としてマレー系優遇を主張、ラーマン首相と対立しUMNOを追放されるが、’72年復党。’74年下院議員に返り咲き、同年教育相、’77年貿易産業相、’81年国防相、’76〜81年副首相兼任。’78年UMNO副総裁を経て、’81年6月より同総裁。同年7月マレーシア第4代首相に就任、マレーシア初の平民宰相となる。’86年より内相、’87年より法相兼務。就任直後から日本や韓国に見習って経済開発を進めようとする“ルック・イースト・ポリシー(東方政策)”を提唱し、急速な経済発展をもたらした。’90年10月の総選挙では自らが率いる与党連合NFが三たび圧勝。’95年4月の総選挙でも国民戦線(UMNOを中核とする連合政権)が圧勝。’94年東アジア経済協議体(EAEC)構想を提唱、“アジアの意志”の代弁者と呼ばれる。また、東南アジア諸国連合の牽引役を務め、’97年には欧米の強い反対に遭いながらもミャンマーの加盟を実現させた。’98年経済政策の対立によりアンワル副首相を解任し、全権を掌握。’99年11月総選挙で国民戦線が勝利。2001年6月財務相兼任。2003年10月首相、UMNO総裁を退任。独自のアジア的価値感を持つ強力な指導者として欧米とも渡り合ったが、国内ではマレー人優遇や野党の弾圧などで摩擦も生んだ。2006年UMNOの地元代議員選挙に立候補したが、落選した。2008年5月UMNOを離党したが、2009年4月復党。2004年より石油工学大学総長。2014年マレーシアの自動車大手プロトン・ホールディングス会長。著書に「The Malay Dilemma(マレー・ジレンマ)」(1969年)、「アジアから日本への伝言」「The way forward」(’98年)がある。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報