マリーン朝(読み)マリーンちょう(その他表記)Marīn

改訂新版 世界大百科事典 「マリーン朝」の意味・わかりやすい解説

マリーン朝 (マリーンちょう)
Marīn

モロッコフェスを都としたベルベル系遊牧民ザナータZanāta族の一派,マリーン族の王朝。1196-1465年。ムワッヒド朝には服従せず,建国後まもなく1213年ころサハラからモロッコ北部に進出,69年マラケシュを占領してムワッヒド朝を滅ぼした。ムラービト朝やムワッヒド朝のような宗教運動を土台にした建国ではないが,スペインのカスティリャ王国への聖戦ジハード)やイスラム政権であるナスル朝支援,モスクマドラサの建設など宗教的意識は強い。アブー・アルハサン(在位1331-48)とアブー・イナーン(在位1348-59)の治世が最盛期で,トレムセンのアブド・アルワード朝(ザイヤーン朝)への支配やチュニスのハフス朝への遠征を行い,また学者を寵愛した。イブン・バットゥータの旅行記はアブー・イナーンの命令による口述筆記の作である。遠征による財政破綻と内政混乱およびアラブ諸部族の離反により滅亡。聖者崇拝思想(マラブーティズム)の発展が著しい時代でもあった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マリーン朝」の意味・わかりやすい解説

マリーン朝
マリーンちょう
Marīn

北アフリカ,モロッコのイスラム王朝 (1196~1472) 。遊牧ベルベル人のゼナータ族がアトラス山中に建てた王朝で,13世紀後半にはムワッヒド朝支配下のモロッコ諸地方に進出し,1269年にその首都マラケシュを落してムワッヒド朝を滅ぼし,フェスに首都をおいた。同朝の歴代スルタンは,スペインのキリスト教勢力との対決に力を注ぎ,しばしばスペインに侵攻したが,1340年のリオ・サラドの敗戦以後は守勢に立たされた。 1415年ポルトガルがセウタを占領すると,再びキリスト教勢力との戦いが激しくなり,その指導権を得た傍流のワッタース家が 72年スルタンを称するに及び,同朝は滅んだ。

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世界大百科事典(旧版)内のマリーン朝の言及

【マグリブ】より

…すなわち当時の歴史家バイザクal‐Baydhaqによれば,ムワッヒド朝のカリフ,アブド・アルムーミンは,12世紀中ごろにイベリア半島遠征のため,イフリーキーヤから1万4000人のアラブをモロッコ北部に来住させたという。これを端緒に,次のマリーン朝,ワッタース朝でもアラブ人傭兵は増加していった。同じころ,アラブのマーキルMa‘qil族はサハラの北縁に沿って移動,モロッコ南部一帯(シジルマーサからスース,ドゥルア地方)に広く住みついた。…

※「マリーン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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