ミリューチン(英語表記)Nikolai Alekseevich Milyutin

改訂新版 世界大百科事典 「ミリューチン」の意味・わかりやすい解説

ミリューチン
Nikolai Alekseevich Milyutin
生没年:1818-72

ロシアの政治家。政治家P.D.キセリョフの甥。兄ドミトリーは軍人政治家,弟ウラジーミルは社会評論家として活躍した。思想的立場はスラブ派に近い穏健的自由主義とされる。1835年より内務省に勤務,ペテルブルグモスクワなどに適用された都市条令の作成など都市行政の分野で,そして種々の全国的な統計収集の作業で頭角をあらわした。59年より内務次官となり,地方制度特別委員会議長を務めたほか,農奴解放に際しては自由主義的な官僚として指導的な役割を演じた。しかし61年の農奴解放令発布後,政府の方針の転換により,ランスコイS.S.Lanskoi内相とともに解任された。63年9月,蜂起に揺らぐポーランドに派遣され,サマーリンYu.F.Samarin,チェルカッスキーV.A.Cherkasskiiの協力を得て農民解放の実施にあたった。その後もポーランドにとどまり,ロシア化政策遂行の任にあたったが,67年病気を理由に政治活動から退いた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミリューチン」の意味・わかりやすい解説

ミリューチン
Milyutin, Dmitrii Alekseevich

[生]1816.7.10. モスクワ
[没]1912.2.7. ヤルタ近郊シメイス
ロシアの軍人,政治家。伯爵。軍アカデミー教授,コーカサス (カフカス) 軍総参謀長などをつとめたあと,1861~81年陸相に就任。 60~70年代一連の軍制改革を行いロシア軍の近代化を促進。政治的には穏健な自由主義の立場をとり,ブルジョア諸改革を唱え,農民運動譲歩。他方 63~64年のポーランド蜂起には徹底的な弾圧を主張した。 78年のベルリン会議後は事実上ロシア外交を指導。アレクサンドル3世治世初期には,M.T.ロリース=メーリコフらとともに,K.P.ポベドノスツェフらの反動グループに対立。 81年引退した。

ミリューチン
Milyutin, Nikolai Alekseevich

[生]1818.6.18. モスクワ
[没]1872.2.7. モスクワ
ロシアの政治家。 D.A.ミリューチンの弟。モスクワ大学卒業後,内務省に勤務し,1859~61年農奴解放のため「法典編纂委員会」の委員として活躍した。 64年からは,ポーランドの農奴解放のためにも大きな足跡を残し,67年病気のため退職した。

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367日誕生日大事典 「ミリューチン」の解説

ミリューチン

生年月日:1818年6月18日
ロシアの政治家,伯爵
1872年没

ミリューチン

生年月日:1816年7月10日
ロシアの軍人,政治家
1912年没

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世界大百科事典(旧版)内のミリューチンの言及

【都市計画】より

…彼の都市計画案がそのまま実現した例は,シャンディガールなどわずかで,ほとんどないといってよいが,今日の都市計画とくに既成市街地の再開発に与えた影響は見のがすことができない。このほかソリア・イ・マータArturo Soria y Mata(1844‐1920)やミリューチンNikolai Aleksandrovich Milyutin(1889‐1942)によって提案された帯状都市,T.ガルニエ提案の工業都市,ゲッデスPatrick Geddes(1854‐1931)の計画理論,F.L.ライトのブロード・エーカー,C.ジッテ,チーム・テン,リンチKevin Lynch(1918‐ )の都市設計論など数多くの独創的な理想都市の提案がある。
【近代都市計画の発達】
 現代の都市計画は産業革命以後,資本主義の発達に伴う急激な都市化に対応し,深刻化する都市問題に解決を見いだそうとする社会・経済の流れの中で成長した。…

※「ミリューチン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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