ヨーロッパの封建社会において,領主の支配・隷属下にあった農奴の身分的解放をいう。狭義には人頭税などの人身的支配からの解放をさすが,広義には封建的土地所有の廃止をも含む。西欧では,11世紀以降,人身的支配からの解放すなわち狭義の農奴解放が進んだが,19世紀以降の封建地代の廃止,農民の土地所有権の確認などの広義に属する改革は,ふつう農民解放とよんでこれと区別する。ロシア・東欧では,この二つの解放が19世紀以降に一体となってすすみ,一般に農奴解放とよばれる。ここでは西欧中世とロシア・東欧の農奴解放について述べる。
西ヨーロッパにおいては,いわゆる農奴解放に先立って中世初期から一定の手続に従った非自由人の解放がしばしば行われたが,被解放者は,まったく土地をもたない奴隷から経済的には自立性を確保している農民までを含み,解放の結果も,完全な自由人とする場合,解放民という呼称を残して旧来の主人との絆(きずな)を存続させる場合,世俗領主から教会の支配へ移して,後者に人頭税を支払う被護民とする場合など多様であった。解放にあたっては個別的な文書が作られ,こうした解放は非自由人の人数を減少させたが,必ずしも領主による個別人身的支配すなわち農奴身分というもの全体を大きく後退させるものではなかった。
本来の農奴解放は,1000年前後から顕著となる農民層の社会・経済的地位上昇の一つの側面をなす。古典荘園制の解体によって賦役労働から解放された農民が,経済的自立性を強め,村落共同体に結集して領主と集団的に対抗できるようになると,個別人身的支配の表現である領主の恣意,人頭税,フォルマリアージュ(結婚税),マンモルト(死亡税)などの廃止,ないし制限が実現され,領主制の重心は,熟知された在地の慣習に基づく裁判権による支配となってくる。そして,こうした変化はしばしば領主と村落共同体の両者を拘束する文書のうちに記録され,客観的な姿を与えられる。しかも領邦君主など,新しい形態の領域的支配を広げようとする領主は,他領主のもとで個別人身的支配のもとにある領民にもこうした解放を及ぼそうとしたから,さまざまな領主の間の闘争を通じて農奴解放はますます促進された。同時に,成長しつつあった中世都市においては自由と自治の拡充が進行し,市民と農奴の解放とが互いに増幅しあっていった。
個別人身的支配の後退は,フランスでは12~13世紀までに,イギリスとドイツではそれより遅れて,農村社会の大勢となったが,農奴はなお多数存在していた。それらは,主として人頭税,フォルマリアージュ,マンモルトなど個別人身的支配の象徴となるような身分的制約や賦課租を負担する者が,非自由人として差別を受ける場合であり,ときには一定領域の住民全体が農奴とされることもありえた。このような農奴の解放は,さまざまな機会をとらえて農民側の要求によっても行われ,中世末期から市民革命期に至るまで,農民一揆による要求として,農奴身分とそれを象徴する諸負担の廃止がしばしば見られる。同時に領主が,すでに時代遅れとなっていたこうした制約や賦課を,1回限りの高額貨幣支払によって解消することに同意することもあった。財源難に悩む領主の中には,一時的な収入を獲得するため,積極的に農奴身分とそれに特徴的な諸負担の有償廃止を進める者も多く,14世紀のフランス国王はその典型的な例である。
執筆者:森本 芳樹
東欧諸国のうち,たとえばハンガリーにおいては,農奴解放は,プロイセンの農民解放が完了しようとしていたころ,1848年の革命を機に〈上から〉本格的に開始されたが,ロシア,モルドバ,ワラキアでは60年代に同じく〈上から〉実施された。セルビアやブルガリアなどティマール制とよばれるトルコの軍事封土制が支配的であった地域では,トルコの支配からの解放後に農民的土地所有が形成された。これらの国のうち,ここではロシアについて述べる。
農奴制下のロシアの農民の解放は,領主農民については1861年2月に,御料地農民は63年6月,国有地農民は66年11月に実施されたが,農奴解放osvobozhdenie krest'yanというときには,通例,本来の農奴を対象とした第1の解放をいう。クリミア戦争での敗北はロシアの後進性を露呈させたが,加えて国内には経済的矛盾と社会的不安が高まっていた。そうしたなかで皇帝アレクサンドル2世政府は,貴族領主の大半が強く反対するなかで,自らイニシアティブをとって農奴制の廃止に踏み切った。その改革事業は,1857年11月20日付のナジモフあて勅書に続く各県知事あて勅書,各県貴族委員会での解放案作成,帝による根本原則の提示,法典編纂委員会による県委員会解放案の審議と解放令の起草,総委員会および国家評議会での検討,帝の批准,発布という経過を経て行われた。この農奴解放令によってそれまでの農奴は,2年間の準備期間ののち,63年2月19日に領主権から解放されることとなった。しかし,この〈解放〉は不十分なものであった。
農奴総数の7%ほどの僕婢については,従前通りに土地は分与されずに,ただ人格的に解放されただけであったが,本来の領主農民については,人格的支配から解放されるとともに経済的にも土地の所有権を獲得する道が示された。しかしそれは,有償で,かつ農民には非常に困難で不利な条件においてであった。農民には,領主側と折衝して作成される〈土地証書〉に基づいて,一定の土地の用益権だけが認められ,同時にそれに対する義務である地代(貨幣支払あるいは労働支払)が定められ,農民は〈一時的義務付農民〉となる。農民はこの義務を償却して初めて分与地を自分の所有地とすることができるわけであるが,その償却額は,貨幣地代を6%の利子で資本還元し,その償却には17年を要するたいへん高い額である。その75~80%は国家が立て替えて領主に信用証書で支払い,それに対して農民は国家にその貸付額を年額6%(0.5%は元本の償還,5%は利子支払,残り0.5%は事務費・予備費)ずつ49年間で返済(償却支払)しなければならなかった。この償却に着手したときに農民は〈所有者〉となる。無償での土地所有権付与の規定もあったが,その場合の土地面積は最大(標準)分与率の4分の1とはなはだしく小さく,この適用をうけたのは農奴総数の4%にすぎなかった。
このように,解放の手続だけをみても農民には困難な条件であったことが推察されるが,その条件の内容を詳しくみると,その困難の大きさがよくわかる。まず,土地分与については地方の特殊性が考慮されて細かく分与率が定められたが,領主には自分の所有する適地の3分の1ないしは2分の1の保留権が無条件に認められたりして,領主側の利益保護が優先した。しかも分与地面積は,多くの場合,解放前のそれを大きく削減(切取り)したものとなった。西部諸県では恩恵的な規定をうけて分与地の若干の増加がみられたが,これは1840~50年代に領主に奪われていた土地の単なる回復を意味していたにすぎなかった。分与地に賦課された義務額も土地収益をはるかに超えたものであり,さらに等級分けが行われた結果,分与地面積が小さいほど義務額は相対的に高く定められた。義務額を基準として計算された償却額,国家の貸付の返済額も,当然,農民には非常に重い負担となった。
以上のような困難な償却条件に加えて,共同体的秩序が存置され,強化されたことが注目されなければならない。在来の農村共同体を基礎として村団sel'skoe obshchestvoが,そしていくつかの村団から郷volost'が組織され,村団には経済的機能が,郷には行政的機能が付された。連帯責任制,均等土地利用が維持されたほか,従来の領主権のうち徴税,徴兵,裁判といった権限が共同体にゆだねられた。かくして解放後も農民は,共同体の枠組みにはめこまれ,加えてこの共同体の活動に対する領主側の監督もさまざまな形で存続した。このような秩序のなかで,重い負担を背負い,土地不足に悩まなければならなかった農民にとって,独立した自営農民への道は深く閉ざされ,自由な賃金労働者としての活動の余地も非常に制限されたものとなった。農奴解放は,資本主義的秩序の形成にはあまりに不十分で矛盾した前提しか生み出さなかった。
執筆者:鈴木 健夫
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農民を特定の農奴身分規定から,ないしは領主制支配それ自体から解放する措置。
①〔ヨーロッパ中世〕古典荘園が崩壊して新しく農村共同体が成立する過程で,旧来の一部農民の農奴身分規定を廃して,均質的な隷農層を創出するためとられた措置で,12,13~16世紀のフランスでみられた。
②〔フランス革命期〕manumission いっさいの身分的負担とともに,封建地代そのものから農民層を解放する措置で,1790年に有償解放が決められたが,93年7月17日の法令で無償解放となり,農民は完全な土地所有者となった。
③〔プロイセン〕Bauernbefreiung 対ナポレオン戦争の敗北からの再建のため,1807年から開始した措置で,19世紀中葉まで続く。一般にシュタイン‐ハルデンベルクの改革といわれる。農民は,改革前の身分規定によって,保有地の3分の1ないし2分の1を領主に割譲することによって自作農となるが,このため農民の多くは事実上の賃労働者に転落した。
④〔ロシア〕osvobozhdenie krest'ian 1861年2月19日に,アレクサンドル2世が発した措置で,領主制を原則的に廃止するものであったが,プロイセン以上に農民に苛酷な条件であり,土地を失った農民は,離村して労働者となるか,土地買い戻しによって債務を負った。
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… 産業革命と市民革命の時代になって,東欧は再び本格的に世界経済に巻きこまれ,西欧の政治・文化の影響を敏感に受けることとなった。東中欧諸国では,19世紀初めから,西欧への農産物輸出の必要上,農業経営の近代化,とくに農奴解放が改革派(中貴族と一部ブルジョアジー)によって要求されるようになるとともに,彼らを中心に多民族帝国内の諸民族の自覚(ナショナリズム)が高まった。この農奴解放と民族的自治の要求が,48年革命から1860年代にある程度実現されるブルジョア的変革の中心的内容であった。…
…この間に土地なしで解放された多くの下層農は,前領主たるユンカーの資本主義的地主経営に安く雇われる労働力となっていった。
【ロシア】
農民運動が高まるなかクリミア戦争での敗北によってツァーリは農奴主国家体制の改造を余儀なくされるが,〈農奴解放宣言〉(1861)をもって始まるいわゆるロシア農民改革の場合,プロイセンに似た点も多い(農奴解放)。さらに,西欧資本主義諸国の労働運動や1848年革命がロシア支配階級に与えた衝撃は大きく,農民をプロレタリアに転化させまいとする意図が加わった。…
…管理諸国の間でも利害の対立があり,イギリスとオスマン帝国は両公国の強化を恐れて統一に反対したが,フランス,ロシアは統一を支持した。クザは首相のコガルニチャーヌと組んで64年には農奴解放を含む近代化の諸立法を行ったが,反対派の勢力も強く,66年には退位を余儀なくされた。議会はホーエンツォレルン・ジークマリンゲン家のカール(ルーマニアではカロル1世)を公に迎え,1866年憲法が制定された。…
…しかし19世紀初めの大学の増設や官吏任用資格制度導入の提唱などを受けて,ニコライ自身も法律学校などの専門学校を設け,大学,専門学校の卒業生に任用・昇進の優先権を保証した。このため政府機関の中堅官僚の質は急速に改善され,内務省,財務省,司法省の中枢を占めたミリューチンらの改革派官僚が農奴解放を中心とする〈大改革〉の大きな推進力になった。彼らの多くは貴族出身であったが,政府からの給与に大きく依存しており,農奴解放への不満から生じた一部地主の代議制の要望に対しても,専制権力を改革のてことする立場をとった。…
※「農奴解放」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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