広義に定義すれば、農村更生運動、農村の婦人や青年運動、あるいは農民のレクリエーション運動などを含むであろうが、普通は、労働運動と同様、階級としての農民が自らの労働条件や経営条件の維持・改善・拡張を、あるいは社会的・政治的生活条件の維持・向上を図り、団結して行う組織的闘争のこと。したがって広義に解した場合、しばしば農民組合運動と相互互換的によばれることが多いが、狭義に解した場合、農民の階級闘争ということができる。
[似田貝香門]
農民運動の典型的形態は資本主義社会における小生産者としての農民の運動である。資本主義的生産の発展は農業をも自らの運動法則のもとにとらえていく。その結果、旧来の小生産者としての農民を分解させていく(農民層分解)。農民層の分解は農業の資本主義経営者と農業労働者を生み出した。農民層の分解と農業の資本主義化がもっとも典型的に形成されたのはイギリスである。そこでは農業は小生産者の徹底的分解によって、基本的には農業資本家、農業労働者、地主の三つの階級に編成替えされていった。したがってイギリスにおいては、小生産者としての農民の存在は少ないので、農業面における勤労大衆の農民運動としてよりも、労働運動の一環としての農業労働運動的性格が前面に出てくるといえよう。
[似田貝香門]
ドイツ、ロシア、日本などのように工業における資本主義の発展が遅れた諸国では、農民層分解がイギリスのように徹底的に進まず、その結果として小生産者としての農民の存在を多く残すことになった。程度の差はあるが、フランス、イタリア、さらにはアメリカなどの諸国でも小生産者農民を多く残している。このような農民層はしばしば農業における基本的生産手段である土地はまったく所有しておらず、土地を小作して高い地代を支払う。この地代は国によって、地方によって、あるいは経営形態によっていろいろ異なるが、おおむね金納、物納(定額ないし刈り分け)あるいは労働地代を支払う。
このような条件に置かれている農民は、地主の搾取を受け、あるいは耕作権も不安定な場合が多い。さらに貧農の場合には自己の労働力を売ることによってかろうじて生活していることが多く、事実上、賃労働者化している。この面でも資本家あるいは富農に搾取されることになる。この点がはっきり現れるのはいわゆる帝国主義の段階である。この段階になると、農民が生産し売却する工業用原料農産物(綿花、繭、牛乳、果実)は、それを購入する資本家の買いたたきにあい、さらに逆に農民が購入する生産諸手段(肥料、農機具など)や生活諸手段も資本家により高い価格を押し付けられることによって、農民はいっそう独占資本の搾取を受けることになる。このような搾取される農民の多いところでの農民運動は、地主や独占資本に対する運動となっている。
[似田貝香門]
イタリア、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパの農民運動は、それぞれ農民の置かれている条件によって若干の差はあるが、以下のような農民運動の性格をもっている。
(1)広範な農民層を結集した反独占闘争 独占資本に対して農民が自ら生産し販売する農産物を有利に販売したり、あるいは農産物の定まった量を農民の希望する価格で国家に買い上げさせたり、アメリカの余剰農産物を輸入する政策に対して団結して反対している。
(2)農民の生産や生活にかかわる国家政策の要求運動 これは具体的には、低所得者への免税を求める税金闘争や、農業の生産を高めるための財政的援助の要求、農民の生活のための社会保障を求める闘争が行われている。
(3)土地闘争 北部フランスや北部イタリアではいまだに農業が資本主義化しておらず、膨大な農民層が存在している。これらの農民の多くは土地を所有しておらず、依然として地主の支配下にあり搾取されている。ここでは小作料の減免と農民の耕作権の保障、農業災害のときの農民が受け取る最低額の保証などの要求が行われている。
アジアや南アメリカのような開発途上国の農民運動は、外国植民者のプランテーションにおける労働者の賃金引上げ、労働条件の改善、労働者の権利獲得闘争とともに、土地解放の闘争を展開している。
[似田貝香門]
農民運動は、奴隷の蜂起(ほうき)、百姓一揆(いっき)、農民騒動などのように、奴隷制社会、封建社会、あるいは封建社会の解体期=資本主義社会の形成期などのそれぞれの社会における被支配階級としての農民が自然発生的、爆発的に引き起こした闘争という前史的形態をもっている。日本では、荘園(しょうえん)制が解体し始め個々の村落が郷村(ごうそん)として成立するころ(室町末期)から逃散(ちょうさん)、強訴(ごうそ)、一揆の形で農民闘争が発生した。1428年(正長1)近江(おうみ)から起こった土(つち)一揆、徳政(とくせい)一揆、1429年(永享1)播磨(はりま)に起こった土一揆、さらには長期にわたった一向(いっこう)一揆などに至ってしだいに大規模化した。この段階では、地侍(じざむらい)らの下級武士の指導による形が多かったが、豊臣(とよとみ)秀吉の刀狩、検地、知行(ちぎょう)制の変革に伴って土一揆的農民闘争は終わりを告げた。
続く近世幕藩体制下での農民闘争は、いわゆる百姓一揆であるが、記録上だけでも570回余りにも上る百姓一揆も、形態的には3期に分けて考えられる。初期のものは名主(みょうしゅ)・庄屋(しょうや)が先頭にたって幕府や領主に要求を突きつける形をとっていたが、中期になると経済活動の商品化に応じて成長してきた豪農が闘争の対象となった。ここでは、2、3の名主・庄屋の英雄的動きというよりは、大衆的な行動が力を発揮した。さらにまた末期の百姓一揆は、ふたたび土豪・地主と貧農とが一体となって領主に対して抗争する形態をとり、都市での打毀(うちこわし)と相まって、封建体制を根底から揺り動かす大規模な大衆闘争の形をとった。
[似田貝香門]
明治維新後、封建的幕藩体制が崩壊し、石代納の容認、米販売の自由、田畑勝手づくりの自由、田畑永代売買の自由、関所の廃止、平民に苗字(みょうじ)の許可、地券の発行と地租収納規則の公布、百姓身分制の廃止、地所質入れ規則公布、地所区分制、居住・移転の自由、旅行の自由などが認められ、封建的諸体制が撤廃された。明治以降の農民運動にも、それ以前の土一揆、百姓一揆、強訴、暴動、逃散、愁訴(しゅうそ)、越訴(おっそ)などの形態が引き継がれた。
〔1〕明治新政府草創期における農民運動 1868年(明治1)から73年までの農民騒動は実に160件に及んでいるが、いずれも前述したような形態での騒動であった。政府が準備しつつあった徴税に対する減税運動は、群馬県高崎における減税陳情蜂起、福岡県企救(きく)郡の打毀と焼打ちを伴った百姓一揆、他領に比べて40倍の税への訴願運動を展開した栃木県那須(なす)の農民運動、大分県日田郡・玖珠(くす)郡の請願一揆、同県大分郡・海部(あまべ)郡・大野郡・直入(なおいり)郡の大一揆、三重県伊賀の農民一揆、山梨県の大小切(だいしょうぎり)騒動、福島県下30万人の大衆を巻き込んだ農民蜂起、山形県庄内(しょうない)のわっぱ騒動などをあげることができる。
凶作飢餓、悪政に抵抗する百姓一揆は、富山県新川(にいかわ)の農民騒動、岐阜県養老山麓(さんろく)の一揆、同県不破(ふわ)の細民騒動、愛媛県宇和郡の農民一揆、青森県七戸(しちのへ)郷の百姓騒動、宮城・岩手県境の農民一揆、愛知県設楽(したら)の百姓騒動、インフレと悪政反対によって事実上全信州を巻き込み、内乱状態となった全信州一揆(西牧(さいもく)騒動、上田騒動、小諸(こもろ)騒動、会田(あいだ)騒動、松代(まつしろ)騒動、須坂(すざか)騒動、中野騒動)などが知られている。
明治政府が徴兵令を公布するやいなや、農業労働力を失うものとして徴兵反対の騒動が全国的に展開された。それは農民にとってまさに夫役(ぶやく)的徴兵と思われたのである。三重県伊賀西山の宗派騒動、大分県玖珠郡の反対運動、美作(みまさか)一帯にわたる蜂起にまで発展していった岡山・北条(ほうじょう)両県の大挙騒動、香川県7郡の農民蜂起、愛媛県周布(すふ)郡の未発一揆、鳥取県会見(あいみ)郡の農民騒動、島根・広島両県の反対蜂起、京都府何鹿(いかるが)・天田(あまた)の農民騒動、長崎・熊本両県の反対一揆、秋田・高知両県の徴兵制反対騒動、夫役反対の信濃(しなの)川開墾騒動などが有名である。これらの騒動は、明治政府が準備していた収奪強化策(俵装改正、検地、地券取調べ)などに対する反対運動でもあった。政府は軍隊の創設、警察力の増強によって弾圧を開始し、農民の決起を抑圧した。
さらに政府は原始的蓄積と地主制の確立のため、土地の官・民有区分制と地租改正を断行した。過重な地租負担は中小土地所有者を没落させていった。これらに反対する農民の騒動は全国的に展開された。和歌山県粉河(こかわ)の反対騒動、茨城県真壁(まかべ)の反税一揆、同県那珂(なか)郡の騒動、三重・愛知・岐阜各県の大一揆、愛知県小牧周辺の農民の抵抗、熊本県阿蘇谷(あそだに)の百姓騒動、富山県礪波(となみ)郡の農民騒動、大分県宇佐の百姓一揆、徳島県上山郷(かみやまごう)の百姓騒動、香川県の地租軽減嘆願運動、福井県7郡の地租改正反対運動などが起き、これらの運動、暴動の結果、3%の地租は2.5%に引き下げられた。
〔2〕資本主義確立過程期における農民闘争 松方デフレ政策によって農村は困窮化し、深刻な打撃を受けた農民は土地、山林、家財を失って都市へ流出し、同時にこれをきっかけに地主は土地を集中し、自ら手作りすることをやめて、小作料を小作人から絞り取る寄生的地主に転化していった。いわゆる寄生地主制の確立である。こうしたなかで、没落していった中小土地所有者・貧農らの農民闘争と、不況期における農民生活の困窮からの農民要求としての小作争議の二つの農民闘争が展開されることになる。
前者の農民闘争は、地租改正後十数年の間に「零細土地所有者で、地租および地方税・区村費不納のための土地強制処分(公売・官没など)を受けたものが、16年から23年までの間に36万7744人ある」(平野義太郎(よしたろう)著『日本資本主義社会の機構』1934)と記されているごとく、失業、倒産、土地(家屋敷)喪失、一家離散、夜逃げ、自殺、泥棒、乞食(こじき)、流民という惨状のなかから発してきたのである。福岡県有明(ありあけ)海干拓地の鍬先(くわさき)騒動、同県の稲株一揆、山口県都濃(つの)郡の偽枡(にせます)騒動、千葉県印旛(いんば)郡の農民闘争、島根県八束(やつか)郡の小作争議、新潟県北蒲原(きたかんばら)郡の小作争議が有名である。このようななかで、いわゆる自由民権運動に連なる福島事件、加波山(かばさん)事件、名古屋事件、飯田(いいだ)事件、秩父(ちちぶ)事件などが引き起こされ、明治政府と地主制に対する闘争となって展開されたが、自由党の内部分裂、解党によって失敗に終わった。
後者の小作争議は、地租改正後、さらに日清(にっしん)戦争後の農村の不況によって小土地所有者としての農民をいっそう階級分化させ、農民、小作人は貧窮化し、兼業農家の増加、出稼ぎ・北海道移民の増加などの状況下で、富山、新潟、山形、秋田各県の米騒動が引き起こされた。さらに小作人の小作権確認闘争や、三重県川口村の小作人たちによって結成された徹交社、岐阜県可児(かに)郡の小作同盟の結成、愛知県の小作騒擾(そうじょう)などを展開していった。小作人は各地域で寄合(よりあい)、会合を開き、小作料の減免を要求した。1897年(明治30)は「百姓一揆の大流行」とまでいわれるほど多くの小作争議が勃発(ぼっぱつ)した。あわせて小作人は自己の生活と小作権を守るため組織を結成するようになった。たとえば、愛知県足助(あすけ)町(現豊田(とよた)市)の小作人によって結成された貧民共党組合、香川県加茂村の小作人によって組織化された人道会などがあげられる。こうした小作人の組織的発展をバックに、大井憲太郎らによって小作条例期成同盟会が、山口県では3000人の小作人によって小作人農事会が組織され、それぞれ小作料の軽減運動が展開された。他方、こうした小作人の運動の組織化に対抗して、地主を擁護するため、政府は全国農事会を結成し、また、地主のための金融機関としての日本勧業銀行、農工銀行を創設し、地主制を強化せんとした。
〔3〕小作争議の全国的拡大と日本農民組合の結成と解体 第一次世界大戦後の不況によって地主は小作料の引上げを迫ったが、小作人は土地の共同返還をもって逆に小作料の減免を迫り、小作争議の件数が増加した。1918年(大正7)のシベリア出兵をきっかけに、軍部と政商は提携して米の買占めを行って米価を大混乱に陥れ、富山県中新川郡西水橋(にしみずはし)町を皮切りに米騒動が起き、これは全国に波及した。
小作争議は激化の一途をたどり、こうした動きを背景に1922年、賀川豊彦(かがわとよひこ)、杉山元治郎(もとじろう)らが中心になって日本農民組合(日農)が結成された。小作料減免・引下げ、耕作権の擁護など小作人の利益の擁護と地位改善を目的とする対地主闘争の組織であった。この組織は1921年以降の小作争議激増の勢いと結び付いて急速に発展し、地主に対する果敢な闘争を展開してしばしば闘争に勝利した。たとえば闘争形態は、地主を困らせる土地の返還、不耕作同盟などの消極的戦術から、より積極的に小作料の減免要求となり、岡山・兵庫両県などでは「小作料の永久三割減」というスローガンをもって闘われた。
これに対し政府と地主側は、対抗手段として協調組合を組織、地主組合(大日本地主協会)を結成(1925)、小作料取り立てのための土地組合を設立した。政府は治安警察法、府県別警察犯処罰令(農業法令)、治安維持法などによって運動・闘争を抑圧した。さらに、地主のために小作調停法、自作農創設維持政策を打ち出し、小作争議に公権力が直接介入する手だてをつけ、農民運動の弾圧と懐柔策を準備した。
下部組織の拡大につれて日農も急速に急進化し、1925年、労働組合に呼びかけて農民労働党を結成した(即日禁止)。翌26年にはさらに更生を図り、労働農民党の結成へと進んだ。日農の発展と並んで地方の農民組合や単独の組合も増加した。1922年に結成された全国水平社も農民組合の戦闘化に大きな役割を果たした。昭和に入ると政府の弾圧はいっそう強化され、かつ、地主側の対闘争戦略も巧みとなり、小作人側の要求も思うようには進展しなかった。そのため運動はしだいに守勢にたたされることになった。
しかも日農内部では政党支持をめぐり内部抗争が激化し、1926年以降、全日本農民組合同盟、全日本農民組合、日本農民組合総同盟と分裂し、労働農民党も、日本労農党、社会民衆党など四分五裂の状態となった。これを機に地主側は動産差押え、土地取り上げ、立入禁止、立ち毛差押えなどを行ったが、小作人・農民側は、農民戦線の統一、小作権の確立をスローガンに闘い、新潟県北蒲原郡木崎村の小作争議などを機会に、「耕作権の確立」を中心スローガンとして全国的に決起した。しかし、満州事変(1931)後一段と強化された弾圧は、運動の活動家を奪い、あるいは閉塞(へいそく)させ、下部組織は次々と解体・消滅に追い込まれた。とくに37年の人民戦線事件で最終的に打撃を受けた。
[似田貝香門]
第二次世界大戦後、農民運動は急速に復活した。1946年(昭和21)には日本農民組合が結成され、100万人の組合員を擁するに至った。47年までは小作問題、供出問題などが重要な課題であった。しかし47年早くも政党支持問題で日農は分裂した。50年に始まる朝鮮戦争をきっかけに、アメリカ軍は軍事基地として農地、山林、漁場を利用した。農民は軍事基地設置・拡張に反対・抵抗し、石川県河北(かほく)郡内灘(うちなだ)町、東京都北多摩郡砂川町(現立川市)、浅間山麓(さんろく)の演習場、富士山麓の演習場などの反対運動によって軍事基地の拡張・設置を断念させた。53年に朝鮮戦争が終わり、50年代後半になると農地改革後の主要な闘争目標を失っていた農民運動は衰退期に当面していた。
1956年12月、農民7団体の共同主催による戦後農民運動10周年記念大会で農民運動の統一が誓われた。これを受けて、57年9月に、農民自身が自発的に団結して大衆的な集団活動によって農民の社会経済的な要求を実現し、農業の発展と農民生活の向上を図ることを目標に日本農民組合全国連合会が結成された。58年3月、連合会、日農新農村建設派、全国農民組合の三者が合同・統一して全日本農民組合連合会(全日農)を結成し、安保改定反対闘争に参加した。さらに、米価などの農産物価格の保障、貿易自由化による農業基本法農政反対などの姿勢をとった。高度経済成長により、工業と農業の成長の格差が拡大し、農民層分解が激しくなり、かつ、戦後の農村を支えていた「むら」も解体し、実に多くの兼業農家を生み出した。ここから、農村労働者との統一した闘争が試みられたが、なんら十分なイニシアティブをもたずに経過し、その後の農民運動は混迷した。
[似田貝香門]
『古島敏雄他編『農民組合と農地改革』(1956・東京大学出版会)』▽『青木恵一郎著『日本農民運動史』全6巻(1958~62・日本評論社)』▽『青木恵一郎編・解題『日本農民運動史料集成』全3巻(1976~77・三一書房)』▽『農民組合史刊行会編『農民組合運動史』(1960・日刊農業新聞社)』▽『村落社会研究会編『農地改革と農民運動』(1977・御茶の水書房)』▽『稲岡進著『日本農民運動史――日本農業の起源から太平洋戦争終末まで』(1978・青木書店)』▽『塩田庄兵衛著『日本社会運動史』(1982・岩波書店)』▽『農民運動史研究会編『日本農民運動史』(1989・御茶の水書房)』▽『佐藤正著『農業生産力と農民運動』(1992・農山漁村文化協会)』▽『西田美昭著『近代日本農民運動史研究』(1997・東京大学出版会)』▽『『農民運動関係文献目録稿』(1998・日本図書センター)』▽『林宥一著『近代日本農民運動史論』(2000・日本経済評論社)』
一般に小作農と地主の関係が生じるところでは農民運動は起こるといえるが,ここでは主として近代日本について記述する。その場合,農民運動とは,小作農が農民組合を結成し,小作料減免,耕作権確立など小作条件の改善と小作農の地位改善をめざした闘争ということができる。主として地主を相手として闘われ,その組織と運動は明治末期から散発的にみられたが,本格的には第1次大戦後の1922年,初めて全国的な農民組織である日本農民組合(日農)が創立されて以降展開した。
第1次大戦による日本資本主義の急激な膨張を背景に,地主・小作間の矛盾は各地で顕現し,小作争議件数は,1918年250件,20年408件と年々増勢した。この高揚のなかで,21年10月には賀川豊彦,杉山元治郎らが中心となって農民組合の全国組織を計画,翌22年4月9日,神戸で日本農民組合(組合長杉山)が創立された。日農が結成されると下部組織は西日本を中心に急速に広がり,岡山,大阪,兵庫,香川などでは日農の指導のもとに大規模で激しい農民運動が展開した。闘争形態は,第1次大戦期に一時みられた土地返還・不耕作同盟結成から小作料減免要求にかわり,地主へ懇願するという消極的戦術から,小学生同盟休校,税金不納,地主の村八分などの対抗的戦術を駆使して闘争するようになった。岡山,兵庫などでは〈小作料永久3割減〉の要求を掲げるまで発展した。
これに対して地主は,地主組合や土地会社を設立し,土地取上げ戦術などで対抗したが,農民組合は耕作権確保のスローガンを打ち出し,永小作権確認の訴訟を行うなど攻勢的手段を用いた。さらに小作料を共同保管し,それを争議資金にするなど組織的方法が功を奏し,1925年ころまでは各地でかなりの小作料減免や小作条件の改善をかちとった。この時期に日農が指導した代表的農民運動には,岡山県藤田農場争議,香川県伏石争議,新潟県木崎村小作争議などがある。また日農の発展とならんで,地方的農民組合や単独組合も増加した。岐阜,愛知を基盤にした中部日本農民組合や長野の上小(じようしよう)農民組合などが活発な地方組合である。1920年代の小作争議の大部分は農民組合の指導のもとで闘われた。地主は当初農民組合に圧倒されていたが,地主団体を結成し,土地所有権の優位性を楯に争議を法廷にもちこみ,土地立入禁止,立毛差押えなどの強硬手段で対抗するようになった。26年ころを境に強まった地主反攻のなかで,小作争議はほとんど法廷戦となり,しかも農民組合の分裂,官憲の弾圧がつづき,農民運動はしだいに困難となり守勢にまわった。
この時期,農民組合は経済闘争とともに農村の政治的改革を重視し,市町村会議員選挙や農会代表選挙に進出していたが,普選を前にした1924年12月,日農は政治闘争の重要性を認識し,無産政党組織の準備を労働組合に呼びかけて25年12月農民労働党を結成した。農民労働党は天皇制権力により即日解散させられたが,翌26年3月には労働農民党(労農党)が結成された。しかし,権力の介入や労働組合の分裂の影響をうけて無産政党の分裂が相次ぎ,農民組合もついに日本農民組合,全日本農民組合(全日農),日本農民組合総同盟に分かれた。さらに治安維持法制定後は官憲の弾圧がいっそう強化され,28年の三・一五事件,翌29年の四・一六事件で左翼的な農民組合の活動家が一挙に検挙された。三・一五事件では,日農最大の拠点の香川県連合会が壊滅的打撃をうけた。しかし,組合の分裂や弾圧がつづくなかでも,下部では農民戦線が統一して闘う地域も少なくなかった。そのようななかで,28年には日農と全日本農民組合が再合同して全国農民組合(全農)を結成し,指導の統一をはかったが,方針をめぐる左右の対立・抗争はその後もやまなかった。
1930年代に入り,深刻な農業恐慌がつづくなかで小作争議は再び増勢に転じた。しかし,その中心は,恐慌で呻吟(しんぎん)する中小地主が自作化あるいは土地売却を目的として小作農に土地返還を迫る地主攻勢的争議であった。争議地域は,東日本に重心が移り,生活防衛的ではあるがそれだけに先鋭的な農民運動が東北・養蚕地域を中心に台頭した。しかし,恐慌後一段と強まった弾圧は東日本の農民組合活動家を奪い,農民組合の活動力は低下せざるをえなかった。32年11月には青森,岩手,宮城,山形,福島諸県の農民運動指導者が一斉に検挙された。また満州事変,五・一五事件を機に台頭した軍国主義,ファシズムの波は,農民運動をいっそう困難にし,農民組合は指導上の方針をめぐって離合集散を繰り返していった。
全農は1931年に全農全国会議派と全農総本部派に分裂し,全日本農民組合と日本農民組合は同年合同して日本農民組合を結成したが,翌年再分裂して日農総同盟を創設した。分裂抗争を繰り返すなかでも,全農全国会議派は32年農民委員会運動を提唱し,自作農を含むより広範な農民の結集をめざして,借金棒引き,電灯料値下げ,失業保険実施などの要求を掲げた。そして,いくつかの地域では実際に土地問題とあわせて電灯料値下げや女工賃金不払い反対など,農民の経営や生活の多面的要求に対応した運動が展開された。しかし,多くの地域では厳しい弾圧で幹部をほとんど奪われ,方針を実践することができなかった。恐慌下の農民運動は,質的にも高度な運動に発展する芽生えを含んでいたにもかかわらず,弾圧と懐柔,主体の側の弱さという困難な条件をかかえ,全体としては後退局面に追い込まれていった。左翼的農民運動の後退と踵(きびす)を接して台頭してきたのが右翼的農民運動である。平野力三を組合長とする日本農民組合は,33年,軍部を中心とした大日本皇道会との提携を決定した。同年にはさらにファッショ的農民団体である日本農道会が兵庫県農会長山脇延吉を発起人として結成される。こうしたなかで,全農は34年から36年にかけて再合同を果たすが,38年には反共・反人民戦線を明確にした大日本農民組合と日本農民連盟に分裂・改組され,近衛文麿を中心とする新体制のもとでついに活動の幕を閉じた。
第2次大戦後,農民運動は急速に復活した。1946年2月にはいちはやく日本農民組合が結成され,当初は約10万~15万人の参加人員であったが,農地改革断行と供出米強権発動反対に取り組むなかで組織を急速に拡大した。1年後には組合員が125万人にまで急増した。しかし,農地改革が終了し地主制が基本的に解体されると農民運動は行詰りをみせた。この間,反独占要求である税金闘争なども取り上げられ,運動の発展が模索されたが,組織上の方針をめぐる対立が深まり,分裂・抗争を繰り返した。47年の日農第2回大会で右派の平野力三が脱退し,ついで49年4月には統一派(黒田寿男)と主体性派(野溝勝)に2分した。さらに52年には主体性派から新農村建設派が分裂し,農民戦線は混迷を深めた。しかし,左右社会党の統一や共産党六全協での方針転換によりしだいに農民戦線統一の気運が盛り上がり,58年,全農民組合の統一組織である全日本農民組合連合会が結成された。運動は必ずしも活発でないが,農産物価格保証や農産物輸入自由化反対などの要求を掲げ,今日にいたる。
執筆者:大門 正克
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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