ムソ

百科事典マイペディア 「ムソ」の意味・わかりやすい解説

ムソ

インドネシア革命家。東部ジャワのクディリで生まれた。バタビア(現ジャカルタ)師範学校卒業後,イスラム同盟の指導者チョクロアミノトに師事し,1920年インドネシア共産党の創立に参加した。1926年の共産党武装蜂起では国外にあって強硬策を推進し,蜂起反対派のタン・マラカらと対立。その後モスクワに亡命し,1935年ひそかに帰国,壊滅状態にあった党の再建を図ったといわれる。1948年8月帰国し,〈インドネシア共和国への新しい道〉を発表,社会党,労働党,社会主義青年団を吸収した新共産党を組織して議長となった。当面する革命の性格をブルジョア民主主義革命と規定し,広範な統一戦線の結成を図り,民族政府支持,柔軟な土地政策などを唱えた。1948年9月ジャワのマディウン市で人民民主戦線派の軍が反中央政府のクーデタを起こし,共産党政権樹立を打ち出してムソが臨時大統領に擬せられたが,スカルノ大統領は中央政府への軍民の支持を呼びかけ,軍主流がマディウンに進攻して反乱軍を破り,ムソやタン・マラカらはこの戦闘で死んだ。
→関連項目シャリフディン

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改訂新版 世界大百科事典 「ムソ」の意味・わかりやすい解説

ムソ
Musso
生没年:1897-1948

インドネシアの革命家。東部ジャワのクディリ生れ。バタビア(現,ジャカルタ)師範学校卒業後,イスラム同盟指導者チョクロアミノトに師事,活動家となった。B支部事件(1919)で投獄され,釈放後インドネシア共産党に入党した。1926年の共産党武装蜂起では国外にあって強硬路線を進め,タン・マラカらの蜂起反対派と対立した。その後モスクワに渡りコミンテルンで活動,30年代半ば,武装蜂起後壊滅状態にあった共産党の再建を工作したという。48年8月,帰国して新共産党を組織,当面する革命の性格をブルジョア民主主義革命と規定し,広範な統一戦線を通じた民族政府の樹立を唱えた。同年9月のマディウン事件で共和国政府の転覆を謀ったとされ,戦闘中に射殺された。
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20世紀西洋人名事典 「ムソ」の解説

ムソ
Musso


1897 - 1948.9
インドネシアの革命家。
東部ジャワのクディリ生まれ。
イスラム同盟指導者チョクロアミノトに師事して、活動家となった。1930年代半ば、武装蜂起後壊滅状態にあった共産党の再建を工作し、’48年新共産党を組織し、広範な統一戦線を通じた民族政府の樹立を唱えた。’48年マディウン事件で共和国政府の転覆を謀ったとされ射殺された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

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