シャリフディン

百科事典マイペディア 「シャリフディン」の意味・わかりやすい解説

シャリフディン

インドネシア共和国の政治家。弁護士として活動するかたわら反ファシズム運動に参加,日本軍政中逮捕され死刑判決を受けるが,スカルノらの嘆願で刑を免れる。独立後,同じく対日非協力者として声望を集めたシャフリルとともに政府の要職につき,情報相,国防相,首相として,オランダとの協調路線を進めた。しかし1948年には,人民民主戦線を結成,同年8月,モスクワから帰国した,インドネシア共産党指導者ムソらのブルジョア民主革命による民族政府樹立のための統一戦線の提唱同調,同年9月東部ジャワのマディウン市における反中央政府の軍事クーデタに参加するが,反乱は大統領スカルノと軍主流によって鎮圧され処刑された(マディウン事件)。この内戦による軍の弱体化に乗じて同年12月オランダはインドネシアに侵攻ジョクジャカルタでスカルノをはじめ政府首脳を拘束するが,共和国軍の抵抗と国際世論の非難を浴び,1949年7月スカルノらを釈放して停戦した。

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改訂新版 世界大百科事典 「シャリフディン」の意味・わかりやすい解説

シャリフディン
Amir Sjarifuddin
生没年:1907-48

インドネシア共和国の政治家。スマトラメダンに生まれ,1933年にジャカルタの法学校を卒業,弁護士を開業するかたわら,反ファシズム運動に投じた。日本軍政中に逮捕され死刑の求刑を受けたが,スカルノらの助命で危うく一命をつなぎとめた。独立後,対日非協力者のチャンピオンとして,シャフリルとともに政界頭角を現し,情報相(1945年8月~11月),国防相(1945年11月~48年1月),首相(1947年7月~48年1月)の要職を占め,オランダとの協調路線を推進した。48年初めシャフリル派と対立し,8月に共産党の大立者ムソが帰国するや,彼と歩調を合わせ,その武装決起事件(マディウン事件)に身を投じ,処刑された。
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