一般的には、特定の具体的な政治状況のなかで、諸階級・諸党派・諸政治勢力が、それぞれの独自の要求を保持しながらも、状況のなかでの基本的争点について、一致点に基づく共同の闘争を行うこと。この意味では、歴史的には古くから存在し(「合従連衡」「大同団結」など)、保守反動勢力、急進革新勢力のいずれについても当てはまる戦術形態(統一戦線戦術)である。
より現代的には、革新諸勢力の、政治変革と社会主義への移行を展望しての、基本政策上の一致点に基づく戦略的運動形態をさし、コミンテルン第7回大会での「反ファシズム統一戦線」(1935)、これに基づくフランス、スペインでの「人民戦線」、中国革命での「抗日民族統一戦線」(国共合作)、アメリカのベトナム侵略に抵抗したベトナム「解放民族戦線」、チリでアジェンデ大統領を生み出した「人民連合」、フランスにおける「左翼連合」などがこれに含まれる。また、この現代的意味では、国内での政治変革についてのみならず、国際政治についても国際統一戦線として述べられることがある。
[加藤哲郎]
統一戦線という術語が政治用語として定着してくるのは、第一次世界大戦後の共産主義運動、コミンテルンの政治戦術としてである。ロシア革命過程での、労働者と農民の階級同盟(労農同盟)を基礎としたボリシェビキ、メンシェビキ、左翼エスエルなどの共同闘争は事実上統一戦線としての意味をもっていたが、1920年代初頭に、ドイツにおいて、ドイツ共産党や共産党系労働組合が、それまでドイツ十一月革命の社会主義革命としての流産の責任を負うものとして攻撃してきた社会民主党や社会民主主義的労働組合に対し、戦後インフレ下の生活擁護と旧体制復活をもくろむ右翼勢力の台頭に対する共同闘争を呼びかけた際に用いられたのが、統一戦線の政治用語としての由来である。
このドイツ共産党で生まれた統一戦線戦術は、戦後革命的情勢の退潮のもとで運動再構築の必要に迫られていたレーニンらコミンテルン指導部によって支持され、1921年のコミンテルン第3回大会から22年の第4回大会にかけて、世界共産主義運動の共通の路線として形成された。この段階の統一戦線は、「プロレタリア統一戦線」「労働者統一戦線」とよばれたように、各国に生まれたばかりの共産主義政党がなお労働者大衆のなかに基盤を確立しておらず、多くの労働者は第二インターナショナル以来の伝統をもつ社会民主主義政党や改良主義的労働組合を自分たちの組織と考えているとする現実的状況認識に基づいて、労働者の多数派を革命の方向へ獲得していくために、主として社会民主主義政党・労働組合の下部労働者を共同闘争に引き入れ、この共同闘争の過程で共産主義の影響下に置いていこうとするものであった。この「初期統一戦線」期にも、社会民主主義政党指導部と共産党との交渉も承認されていたし、この労働者統一戦線を基盤とした「労働者政府」や、多数の農民を抱えている国々での「労働者・農民政府」の可能性も考えられていた。この方針に基づいて、1922年には三つのインターナショナル(コミンテルン、第二インターナショナル、第二半インターナショナル)間の共同闘争についての国際会議が開かれ、23年にはドイツのザクセン、チューリンゲン州政府での「労働者政府」の一時的樹立も行われた。
しかし、ドイツの「労働者政府」がすぐに敗北し、統一戦線の支持者であったレーニンが死去してのち、1920年代後半から30年代前半のコミンテルンでは、統一戦線ということばは残されたものの、もっぱら社会民主主義系下部労働者を共産党に獲得するためのマヌーバー(策略)とされ、政党・労働組合指導者間の頂上交渉は「下からの統一戦線」の名のもとに抑制された。世界恐慌が勃発(ぼっぱつ)しファシズムが台頭してきた30年代初頭には、社会民主主義とくにその左翼を主要敵とみなし社会民主主義そのものをファシズムと同列に扱う「左翼社会民主主義主要敵論」「社会ファシズム論」が採用され、ドイツでのヒトラー・ナチズム政権樹立を許す一因となった。これはまた、ファシズム国家も民主主義国家もブルジョアジーの独裁として社会主義=プロレタリア独裁と対置する思考と結び付いていた。
1935年のコミンテルン第7回大会において、ドイツ・ファシズム政権成立の衝撃を受け、革命勢力の孤立をようやく自覚した共産主義勢力は、ファシズムに反対するすべての政治勢力を結集し、ファシズムに対してただちに社会主義を対置するのではなく、ブルジョア民主主義を擁護し、労働者階級に社会的基盤をもつ社会民主主義政党と積極的に交渉していくという、反ファシズム統一戦線を提唱した。これは、34年のフランス、オーストリア、スペインなどでの共産党と他党派との共同闘争の経験を踏まえたもので、労働者階級ばかりでなくファシズムに反対する中間層をも含む統一戦線が人民戦線として公認され、これを基盤とした統一戦線政府・人民戦線政府が社会主義への移行を準備するものとして戦略的に位置づけられた。この反ファシズム統一戦線・人民戦線の提唱に基づいて、フランスやスペインでは、政策協定を基礎にした人民戦線政府がつくられたが、その際、共産党と社会民主主義政党ばかりでなく、知識人やさまざまな反ファシズム大衆団体も重要な役割を果たした。第二次大戦は、それ自体としてみても、ファシズム枢軸諸国に対する反ファシズム連合諸国の国際統一戦線的性格をもっていたが、この過程での中国抗日民族統一戦線、反ファシズム・レジスタンス運動、アジアの民族解放闘争は、それぞれに統一戦線運動として展開された。戦争末期から戦後にかけての、東欧やアジアでの人民民主主義国家の成立は、統一戦線を基礎にした社会主義への移行と位置づけられた。
[加藤哲郎]
第二次大戦後、革命路線としての統一戦線は、戦略的なものとして一般化した。それと同時に、各国での統一戦線は、それぞれの国の歴史的・文化的伝統に立脚した、それぞれの国家と政治の性質と勢力関係に応じた具体的なものでなければならないことも明らかになった。社会主義への統一戦線的移行を現実に経験した後進国や中進国の場合、民族的解放と国家的独立、土地革命や外国資本の没収・国有化、戦犯追放や国家機構の民主化が、統一戦線の主要な内容となった。発達した資本主義的生産力をもち民主主義的伝統の根づいてきた先進国の場合、独占ブルジョアジーや多国籍企業への規制や国有化、民主的経済運営や政治的・軍事的諸制度の民主化の徹底が、反独占ないし反帝反独占統一戦線の課題とされた。すでにコミンテルン第7回大会(1935)は、「主要敵」と「中心問題」に応じた統一戦線・人民戦線を提唱していたが、「主要敵」を除くすべての政治勢力は、「中心問題」にかかわる統一戦線の主体となりうる。したがって、統一戦線形成の主体は、一つの階級ないし政党政派ではなく、民族、国民大衆、人民、市民などとして把握される圧倒的多数で多階層的な人々の集合である。このなかで労働者階級とそれに基礎を置く労働者政党・労働組合組織は、量的にも政治指導においても中核的役割を果たしうるが、その他の階級・階層・政治勢力の独自の要求と自律的運動も存在意義が認められ、役割を果たしうる。また、労働者階級内部においても、共産主義政党と社会主義政党、労働組合その他の大衆諸組織は、相互にその自主性を尊重しつつ対等・平等の立場で統一戦線に加わるのであり、この意味で統一戦線は、本質的に民主主義的な運動形態であり、運動の組織形態である。もともと世界観や政治的綱領の相違を前提にしての共同闘争である統一戦線は、統一戦線内での意見の相違を当然に前提とするし、諸党派のヘゲモニー競争も、それが統一戦線の共同目標達成を阻害するものでない限り、認められる。重要なのは、共通の一定の目標や利害をもちながら、その世界観や綱領上の相違を理由として統一戦線そのものを否定する傾向であり、こうした傾向は、より低次のレベルでの共同闘争と、統一戦線としての組織的共闘の前段階である統一行動のなかで、実践的に克服されていく。
発達した資本主義国の社会主義への移行は、まだ人類未踏の実験であるが、それが暴力革命の形態をとらない平和革命を目ざし、選挙と議会での多数派形成による合意による革命路線であり、社会主義社会においても複数政党制や民主的政権交代を承認する民主主義的社会主義を目標として設定するならば、そこに至る過程は統一戦線の民主主義的発展以外にはありえない。西欧諸国やわが国でのこれまでの経験は、統一戦線には政党ばかりでなく諸大衆組織・市民団体も加わるべきこと、これらの諸勢力は共通の目標を政策協定として明確にすべきこと、統一戦線の民主的運営のためには政策協定ばかりでなく組織協定も必要なこと、中央政府に対する闘争ばかりでなく地方政治レベルの統一戦線や住民運動・市民運動の共闘の積み重ねが強固な統一戦線の基盤となること、ベトナム反戦や反核運動のような国際統一戦線的闘争も国内での統一戦線発展に重要な役割を果たしうること、などを教えている。イタリアの「オリーブの木」、フランスの「左翼連合」、わが国の「革新自治体」などの経験は、こうした原理に基づく現代先進国の統一戦線運動の実験であったといえよう。
[加藤哲郎]
『ディミトロフ著、坂井信義・村田陽一訳『反ファシズム統一戦線』(大月書店・国民文庫)』▽『影山日出弥著『国家イデオロギー論』(1973・青木書店)』▽『清水慎三編著『統一戦線論』(1968・青木書店)』
国際共産主義運動の革命戦略・戦術の一形態。コミンテルン第3回大会(1921)の〈戦術テーゼ〉,第4回大会(1922)決議で,社会民主主義の影響下にある労働者を共産党の側に獲得する〈プロレタリア統一戦線〉論が提起されたのがその始まりである。共産党と社会民主主義諸党との協定を含む〈上からの統一戦線〉と,社会民主主義指導部に反対しての共,社両党党員・支持者の統一行動を含意する〈下からの統一戦線〉の区別がなされる。コミンテルンの方針はこの両者の間を動揺するが,〈階級対階級〉戦術をとり,とくに左翼社会民主主義に主要打撃の方向を設定する(〈社会ファシズム論〉)コミンテルン第6回大会(1928)ころになると,〈プロレタリア統一戦線〉の戦術はかげをひそめてしまう。
統一戦線戦術が新しい装いのもとにコミンテルンで復活するのは,ドイツで1933年のナチズムの政権獲得後,35年のコミンテルン第7回大会においてであった。この大会において,コミンテルン書記長ディミトロフは,プロレタリア統一戦線と同時に反ファッショのいっさいの勢力を結集する統一戦線形態として,反ファシズム人民戦線をフランス等における実際の運動経験に基づいて提起した(その成果は1936年のフランス人民戦線,スペイン人民戦線。37年以降の中国における抗日民族統一戦線など)。第2次大戦後になると統一戦線概念はより普通名詞化するとともに,政治変革と体制的移行の展望をはらみ,その意味で戦略的な運動・組織形態として理解されるようになった。
→人民戦線
執筆者:田口 富久治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ファシズムが最初に出現し,また早くファシズム政権が成立したイタリアでは,他国に先がけてすでに1920年代に反ファシズムのさまざまな運動が繰り広げられる。その後,30年代前半にドイツ・ナチズムの台頭と権力獲得に際して,反ファシズムは統一戦線あるいは反戦平和の思想と深い結びつきをもつようになり,またイタリア,ドイツをこえて国際的な広がりをもつに至る。30年代半ばになると,ファシズムに対抗,阻止するものとして人民戦線が提起され,人民戦線が反ファシズムの主要なあり方とみなされる時期が生じる。…
※「統一戦線」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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