モンベツ場所(読み)もんべつばしよ

日本歴史地名大系 「モンベツ場所」の解説

モンベツ場所
もんべつばしよ

近世後期、オホーツク海沿岸部ほぼ中央に位置していた漁業基地。一六八〇年代に開設したソウヤ場所に属した。一七八九年(寛政元年)クナシリメナシの戦に関連しソウヤ場所請負人飛騨屋久兵衛が失脚、翌九〇年五月松前藩は北辺の取締を理由にソウヤ場所からカラフトシラヌシとシャリ場所を分離し藩の直領とした(「蝦夷地一件」など)シャリ場所設置により沿岸部の帆船航路がシャリ(現斜里町)まで延長、このためソウヤ場所とシャリ場所との間で寄港地が必要となり、自然湾形に恵まれた当地に番屋が設置された(紋別市史)。初め番屋はアイヌコタン所在地の藻鼈もべつ川河口部に置かれていたが、その後四〇町ほど北のウエンノトロ(現弁天岬)の地に移り、以後同所がモンベツ、前所在地をモウベツまたはモウヘツ(現元紋別)と呼称区分をされた(「西蝦夷日誌」など)。幕末期になると運上屋があるとされたり、場所とよばれたりしていたが、ソウヤ場所と合せて同一の請負人が請負うことが続いたので運上金も一括された(場所境調書)

モンベツ番屋の設置年についての資料は少ない。近藤重蔵本「西蝦夷地分間」に番小屋が記されており、一七九八年と推定される書写年代からシャリ場所新設と同じ頃に番屋が設置された可能性がある。モンベツ番屋の施設は九八年の谷口青山沿岸図(市立函館図書館蔵)に「トマリ (中略)此所番屋アリ。止宿也」とあり、一八〇七年(文化四年)には番家一・板蔵三・茅蔵四(「西蝦夷地日記」文化四年九月二一日条)、五七年(安政四年)には通行屋一・大工小屋一・雇蝦夷小屋一・板蔵一二・茅蔵五・弁天社一で構成されており(廻浦日記)、その規模はシャリ場所に並ぶ。モンベツ番屋・運上屋・元運上屋大番屋・モンベツ領・ソウヤ領モンベツ番屋などともよばれており、また「西蝦夷日誌」の藻鼈川河口の記事では「是当場所の元地なり」とあり、場所とよばれていることをも記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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