現代外国人名録2016 「リッチーブラックモア」の解説
リッチー ブラックモア
Ritchie Blackmore
- 職業・肩書
- ロック・ギタリスト
- 国籍
- 英国
- 生年月日
- 1945年4月14日
- 出生地
- ウェストン・スーパー・メア
- グループ名
- ユニット名=ブラックモアズ・ナイト, 旧グループ名=ディープ・パープル〈Deep Purple〉, レインボー〈Rainbow〉
- 経歴
- 幼い頃からスパニッシュ・ギターやクラシック・ギターを修め、14歳でエレクトリック・ギターを手にする。学校を卒業後、ヒースロー空港の技師として働くが、間もなく辞して音楽活動に入る。はじめは地元のバンドでプレイしたが、ドイツのハンブルクに渡り、ここで知り合ったスクリーミング・ロード・サッチにギターの腕を認められてサッチのバンドであるスクリーミング・ロード・サッチ&ザ・サベージスに加入。その後、様々なバンドやミュージシャンとのセッションを経て、1968年ジョン・ロード、イアン・ペースらとディープ・パープルを結成。スパニッシュ・ギターやクラシック・ギターの素養に裏打ちされた速弾きスタイルでファンを虜にした。’69年サード・アルバム「ディープ・パープルⅢ」を発表後、米国のワーナー・ブラザーズ・レコードと契約を結ぶと共にメンバーチェンジを行い、よりハードなサウンドを追求しながらロックとクラシックの融合など新しい試みを進め、「イン・ロック」(’70年)、「ファイアボール」(’71年)、「マシン・ヘッド」(’72年)などのアルバムをリリース。その中からは「スピード・キング」「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「バーン」などのヒット曲が出た。また、過激なライブ・パフォーマンスにも人気が集まり、世界的な名声を獲得した。この間、’72年に初来日。’74年再びメンバーチェンジのあとアルバム「紫の炎」を発表するが、’75年バンドを脱退した。同年米国のロックバンド、エルフをそのまま吸収する形でレインボーを結成し、アルバム「銀嶺の覇者」でデビュー。ディープ・パープルの方向性を維持しながらバロック音楽やポップスなどの要素を取り入れたハードロック・サウンドで高い支持を得、「虹を翔ける覇者」(’76年)、「バビロンの城門」(’78年)、「ダウン・トゥ・アース」(’79年)、「アイ・サレンダー」(’80年)などのアルバムや、「シンス・ユー・ビー・ゴーン」「アイ・サレンダー」などのヒットシングルを次々と生み出したが、リッチーが絶対的なリーダーシップを発揮したためにメンバーの出入りも激しく、’84年に解散した。同年ディープ・パープルの再結成に参加、アルバム「パーフェクト・ストレンジャーズ」などを発表したが、他のメンバーとの確執により、’93年脱退。’97年婚約者のキャンディス・ナイトとブラックモアズ・ナイトを結成し、アコースティック・ギターを中心にヨーロッパ中世のルネッサンス音楽を取り入れたフォーク風のサウンドに移行、同年発表のファースト・アルバム「シャドウ・オブ・ザ・ムーン」を皮切りに、「アンダー・ア・ヴァイオレット・ムーン」(’99年)、「ファイアーズ・アット・ミッドナイト」(2001年)、「ゴースト・オブ・ア・ローズ」(2003年)、「オータム・スカイ」(2010年)とコンスタントにアルバムをリリースしている。2008年キャンディスと結婚。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報