翻訳|Babylon
イラク中部,バグダードの南90kmのユーフラテス川両岸にまたがるメソポタミアの古代都市。古代名は〈神の門〉を意味するアッカド語のバビリムBab-ilimに由来し,聖書ではバベルBabelと記されている。守護神はマルドゥク。前3千年紀末に記録に現れるが,重要な役割を果たしたのは,アムル人(アモリ人)のバビロン第1王朝が成立し,第6代目の王ハンムラピ(在位,前1792-前1750)が即位してからである。ハンムラピは外交と軍事に優れた才能を発揮し,在位中にエラム,ラルサ,エシュヌンナ,マリを相次いで倒してメソポタミアを統一した。その間に有名な〈ハンムラピ法典〉を制定しているので,おそらく都市,宮殿,神殿,ジッグラトなどの建設活動も盛んに行われたであろうが,バビロンの発掘では彼の造営になる建物は何一つ知られていない。
バビロン第1王朝はカッシート人に滅ぼされ,彼らの支配下のバビロンからはクドゥルkudurruと呼ばれる境界石が知られているにすぎない。カッシート王朝の滅亡(前12世紀半ば)後はいくつかの弱い王朝が興亡し,政治的に不安定な時代が続いた。アッシリアの攻撃をうけたときのセンナヘリブ(在位,前704-前681)の破壊はすさまじく,バビロンは沼沢地のようになったが,前625年には独立し,次いでメディア人,スキタイ人と連合してアッシリアを滅ぼし,新バビロニア王国を建設した。これはカルデア王朝とも呼ばれる。ネブカドネザル2世(在位,前604-前562)は,各地に遠征し,反抗する都市は,例えばバビロン捕囚のような形で徹底的に抑圧し,また大規模な首都再建を実行した。1899-1917年に行われたドイツ人コルデワイR.Koldeweyの発掘によって明らかにされ,よく復元図に示されているバビロンはこの時代のものである。都市は方形で二重の城壁に囲まれ,ユーフラテス川が中央を流れる。推定復元で長方形とされた内城壁の長辺が約2600mある。その西側にネブカドネザルの宮殿,〈空中庭園〉などがある。新バビロニア時代をさかのぼる層は湧水のため発掘できなかった。聖域の東に住民の居住区があった。ヘロドトスの《歴史》によると,規模は巨大であり,〈われわれの知る限り他に類のないほど美しく整備された町〉(第1巻)と記されている。前539年にペルシアのキュロス2世によって独立を失ったが,東方世界における華麗な都としての地位は変わらず,アケメネス朝ペルシア時代でもバビロンを中心におき,川や運河を表現した地図が描かれた。アレクサンドロス大王が遠征の途中で病死したのもここであった。
しかし時の経過とともにバビロンの意義は減少し,パルティア人による前124年の占領はこの傾向を決定的にした。そして後1世紀の後半につくられた《ヨハネの黙示録》は壮麗な都バビロンが一瞬にして無に帰してしまった(18章)と記す。その成立年代は明確でないが,《イザヤ書》18章や《エレミヤ書》50章の預言が文字通り成就されたものとみなされて,欧米のキリスト教社会では,〈バビロン〉を堕落した社会の象徴とし,ローマやロンドンを比喩的に指すこともある。また17世紀のプロテスタントはローマ・カトリック教会をThe Whore of Babylon(バビロンの退廃社会)と呼んで非難した。他方,例えばF.S.フィッツジェラルドの小説《雨の朝パリに死すBabylon Revisited》(1931)のように,栄光の時代を示すこともある。なお,イラク考古総局は,イタリア政府の技術協力によってバビロンの復元事業を継続中である。
執筆者:小野山 節
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古代バビロニアおよび新バビロニア(カルデア朝)の首都として繁栄した古代都市。その遺跡はイラク共和国の首都バグダード南方約110キロメートルのユーフラテス川河畔にある。バビロンの名は、シュメール語カ・ディンギル「神の門」を、バビロニア語に訳したバーブ・イル(ここからヘブライ語バベルが出た)、あるいはイル「神」を複数にしたバーブ・イラーニのギリシア語形で、もとここはメソポタミアの古い神域であった。バビロンについての記録はアッカド朝シャルカリシャッリ王(前2300ころ)にさかのぼるが、もっとも繁栄したのはバビロン第1王朝、とりわけ英主ハムラビ王(在位前1792~前1750または前1728~前1686)の時代であった。バビロン第9王朝を継ぐ新バビロニア(カルデア王朝、前625~前539)の第2代ネブカドネザル2世(在位前605~前562)のもとでバビロンは新たに補修・造営されたが、前539年にアケメネス朝ペルシアの攻撃を受けてこの王朝は倒れ、ついでこの地に入ったマケドニアのアレクサンドロス大王がここで没してから、セレウコス朝(シリア王国)のもとで近くにセレウキアが建設されたためにバビロンは衰退した。
バビロンについては『旧・新約聖書』、古典古代の著述家(とくにヘロドトス)が種々の伝承・記述を伝えている。『旧約聖書』では、いわゆるバベルの塔(ジッグラト)、バビロニアによるユダ王国の征服、バビロン捕囚(前597、前586)とバビロンからの帰還、バビロンの陥落などが記されており、とりわけバビロン(新バビロニア)の横暴を憤り、その滅亡を予言する「エレミヤ書」、捕囚の苦しみを歌う「詩篇(しへん)」第137篇などはよく知られている。
近代になって、ハムラビ法典やバビロンの新年祭(アキトゥー祭)文書、多くの年代記などの楔形(くさびがた)文字文書から、バビロンをめぐる歴史、宗教、社会などがかなり明らかになった。また1899~1917年にはR・コルデウァイの指揮下にドイツ調査団がこの地を発掘し、主としてネブカドネザル2世治下のバビロン(ユーフラテスを挟む城壁、中央のジッグラト、イシュタル門と通り、いわゆる空中庭園の跡など)が確認された。
[矢島文夫]
『パロ著、波木居斉二訳『ニネヴェとバビロン――続・聖書の考古学』(1959・みすず書房)』▽『J・G・マッキーン著、岩永博訳『バビロン』(1976・法政大学出版局)』
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メソポタミアの都市。「神の門」の義。ウル第3王朝時代に主要都市の一つとして登場するが,バビロンが世界の中心としての地位を得たのは,バビロン第1王朝のハンムラビが再統一を果たし,バビロンの都市神マルドゥク神が神々の王とされたときからである。以後,王朝は交代しても,バビロンが世界の中心という位置づけに変更はなかった。新バビロニア王朝のネブカドネザル2世は「バベルの塔」や王宮,城壁をつくるなど大規模なバビロン復興を実行した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
(2019-7-9)
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