ルイセンコ論争(読み)ルイセンコろんそう

改訂新版 世界大百科事典 「ルイセンコ論争」の意味・わかりやすい解説

ルイセンコ論争 (ルイセンコろんそう)

ソ連の農学者T.D.ルイセンコの生物学説,遺伝学説をめぐる論争ルイセンコは1920年代の終りごろから,ソ連政府・共産党のイデオロギー政策・農業政策に沿った諸学説を提唱し,生物学および政治の両側面において,ソ連国内のみならず世界的な規模で論争をひきおこした。生物学的側面についていうと,ルイセンコは35年以来,コムギ播性の遺伝を人工的に変え,従来の品種よりも強力な耐寒性のコムギをつくりだしたと発表した。つまり彼は獲得形質の遺伝を主張したのであり,さらに遺伝子説の否定にまで自説を一般化した。これにたいし通常の生物学者たちは,ルイセンコの研究技術の粗雑さや生物学の基本的な訓練の欠如に批判をあびせ,彼の方法に疑問をなげかけた。政治的な面にかんしてはルイセンコ派と通常の生物学者のあいだの敵対はいっそう深刻であった。とくに第2次大戦後になって,ソ連の指導的生物学者であり,反ルイセンコ派の支柱であったバビロフN.I.Vavilovの獄死(1943)が伝えられる一方,48年の農業アカデミー総会における論争を機に,反ルイセンコ派の生物学者が大量に追放されたことが明らかになるにいたって,ソ連国外の生物学者たちは激しい抗議の声をあげることになった。日本においても47年以後,主として民主主義科学者協会系の生物学者によってルイセンコ学説が好意的に紹介されはじめた。通常の生物学者たちも,これを生物学上の問題提起として受けとめ,結実性のある議論が期待されそうであった。しかしバビロフの獄死と48年論争の結末が伝わるとともに,ルイセンコ支持派も批判派も硬直した姿勢をとるようになった。ソ連においては55年ごろからルイセンコの主張の誤りが摘出され,その農業上の実効も疑われるようになり,65年に彼は遺伝学研究所長の地位をうばわれた。他方,かつてルイセンコによって追放されたソ連の生物学者たちは,現在では完全に復帰している。ペレストロイカもとで発表されたV.D.ドゥージンツェフの小説白衣》(1987)は,ルイセンコが権勢をふるった時代を鋭く告発している。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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