日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルイセンコ」の意味・わかりやすい解説
ルイセンコ
るいせんこ
Трофим Денисович Лысенко/Trofim Denisovich Lïsenko
(1898―1976)
ソ連時代に活躍したウクライナ出身の農業生物学者。ウクライナの農家に生まれる。ウマン園芸学校、キエフ(キーウ)農業専門学校で学んだのち、1925年、ギャンジャ育種試験場に赴任。植物の発育には適切な温度・光・水分などを必要とするいくつかの段階があるという「発育段階説」を唱え、それに基づき秋播(ま)きコムギを人為的に低温下に置いて春に播く「春化処理(ヤロビザーツィヤ)」法を発表した(1929)。同年、オデッサ(現、オデーサ)の淘汰(とうた)学遺伝学研究所に移り、1936~1938年、所長を務めた。このころ、春化処理によってコムギが秋播き型から春播き型に遺伝的に変化する(獲得形質が遺伝する)と主張して、メンデル遺伝学を激しく攻撃した。スターリン政権下でしだいに政治力を強め、1939年には農業科学アカデミー総裁に選ばれ、翌年モスクワ遺伝学研究所所長に任じられた。1936年と1948年の二度にわたり、旧ソ連生物学界をあげての討議の結果、ルイセンコ学説が農業生産上有効なものとして採用され、反対派は学界から追放された。このできごとは世界の科学界に大きな衝撃を与え、彼が主張する遺伝的性質の可変性の当否、科学と政治の関係をめぐって、いわゆる「ルイセンコ論争」を引き起こした。スターリンの死後、支配力を弱め、1955年にはアカデミー総裁を辞任し、やがて完全に失脚した。
[檜木田辰彦]
『中村禎里著『ルイセンコ論争』(1967・みすず書房)』▽『Z・A・メドヴェジェフ著、金光不二夫訳『ルイセンコ学説の興亡――個人崇拝と生物学』(1971・河出書房新社)』