ワーテルローの戦(読み)ワーテルローのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「ワーテルローの戦」の意味・わかりやすい解説

ワーテルローの戦 (ワーテルローのたたかい)

1815年6月,現ベルギーワーテルロー南方において,ナポレオンの〈百日天下〉に終止符を打ち,23年ぶりにヨーロッパに平和をもたらした歴史的会戦。この年3月エルバ島を脱出して帝位を回復したナポレオンは10万強の兵を率いてベルギーに進出,ウェリントンが指揮するイギリス軍(6万8000)とブリュッヒャー指揮下のプロイセン軍(4万5000)を主力とする連合軍と対決した。6月16日ナポレオンはまずプロイセン軍をリニーで破って敗走させ,イギリス軍を圧迫する態勢をとった。18日,前日来の豪雨のため攻撃開始を遅らせていたナポレオンは,正午ごろから総攻撃を命じたが,ウェリントンはワーテルローの南方モン・サン・ジャン陣地を死守して時間をかせぎ,いったん退却したプロイセン軍の来援によって形勢は逆転,フランス軍は2万5000の死傷者と9万の捕虜を残して戦場を放棄した(イギリス軍の人的損害は1万5000,プロイセン軍のそれは8000)。野望を打ちくだかれたナポレオンは4日後に退位した。この戦闘については,V.ユゴーの《レ・ミゼラブル》(1862)に有名な叙述がある。
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百科事典マイペディア 「ワーテルローの戦」の意味・わかりやすい解説

ワーテルローの戦【ワーテルローのたたかい】

1815年エルバ島を脱出しパリに帰還したナポレオン1世が,ベルギーのワーテルローWaterloo(英語読みではウォータールー)で英国ウェリントン指揮下の諸国連合軍と交えた戦闘。ナポレオン戦争最後の戦い。ナポレオンは一時勝機を得たが,連合軍側にプロイセン軍が合流するに及び完敗百日天下はこの時をもって終わった。
→関連項目グナイゼナウブリュッセル

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世界大百科事典(旧版)内のワーテルローの戦の言及

【解放戦争】より

… 他方,13年11月末オランダ解放,14年1月デンマークの連合国側参加,同時期のイタリアにおけるフランス勢力の後退,2月イギリス・スペイン連合軍のピレネー越えによる南仏進出など,連合国側の攻勢が続き,3月31日パリを占領,4月初めナポレオン帝政は崩壊し,ブルボン王政が復活した。5月20日のパリ講和で戦争は終結,連合国側は戦後処理をウィーン会議にゆだねたが,その最中エルバ島を脱出してフランスの政権を回復したナポレオンの大軍を15年6月,ワーテルローの戦で連合軍が撃破し,ナポレオンの野望を挫折させた。他方,ウィーン会議は,メッテルニヒの主導のもとに主要国の君主主権の回復,領土の再配分,ドイツ連邦の創設などによって,ナポレオン体制崩壊後のヨーロッパの秩序を確立したが,解放戦争で燃え上がったドイツ・ナショナリズムの〈自由と統一〉の念願は実現しなかった。…

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