ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
モロッコの王朝(789~926)。第4代カリフ、アリーの子であるハサンの曽孫(そうそん)イドリースが、アッバース朝に対する反乱に失敗したのち、メッカ近郊ファッフからモロッコに逃れ、ベルベル系の一派アウラバ人の支持を得てワリーラ(ボリュビリス)に建国した。史上最初のシーア派王朝とされるが、支配者がイマームを称したことや、イフリーキヤ(チュニジアを中心にしたマグレブ東部)やアル・アンダルス(イベリア半島内のイスラム教徒の支配地域)からのシーア派教徒亡命者を保護したこと以外に、その政治に顕著なシーア派的特徴はない。
イドリース1世の死(一説にアッバース朝カリフ、ラシードの密使による毒殺)後、ベルベル人の妾(しょう)カンザの子イドリース2世が即位した。彼によって、イドリース1世に始まる新首都フェズの建設が完成し、また国家体制が整った。フェズにはアル・アンダルスやイフリーキヤからアラブ人の来住が絶えず、都市の拡大を促し、進んだ技術や文化を伝えた。ヤフヤー1世の平和な治世(849~863)下にはとくに来住者が多く、カラウィイーン・モスクやアンダルス・モスクなども建設された。早くも9世紀前半には兄弟間で領土の分割が始まり、王朝は衰退、ファーティマ朝によって滅ぼされた。モロッコ史で重要な役割を果たすシャリーフ(ムハンマドの子孫)の権威と伝統は、この王朝に由来する。
[私市正年]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…すなわち,トリポリ地方の遊牧民でザナータ系のハッワーラHawwāra族は,ハワーリジュ派(イバード派)のルスタム朝(777‐909。首都ターハルト)を支持し,シジルマーサには,ベルベルによってハワーリジュ派(スフリ派)政権,ミドラールMidrār朝(806∥807‐976∥977)が建国され,アウラバAwraba族は,アッバース朝に反乱を企て失敗したハサン家のイドリースのイドリース朝(789‐926。首都フェス)建設を助け,クターマKutāma族は,過激シーア派のイスマーイール派を支持してファーティマ朝(909‐1171。…
※「イドリース朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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