モロッコ北部の内陸都市。同名県の県都。アラビア語でファースFās,また一般にはフェズともよばれる。人口94万6815(2004)。789年,イドリース朝(789-926)の建国者イドリース1世がセブ川上流のフェス・ワーディー(涸れ川)のくぼ地に建設したのが起源。9世紀初め,コルドバおよびチュニジアのカイラワーンから多くの亡命者が来住,コルドバからの者が川の右岸に,カイラワーンからの者が川の左岸に住みついてそれぞれアンダルス地区,カラウィイーン地区として急激に発展した。また,彼らとともに進んだ学問や建築技術なども伝来した。11世紀のムラービト朝期には,川をはさむ二つの町が併合され,マリーン朝期の飛躍的発展を準備した。
13世紀中ごろ,マリーン朝(1196-1465)の都となると,数多くのモスクやマドラサ(学院)の建設,西方の高台への市街地(〈白い町〉を意味するマディーナ・アルバイダーal-Madīna al-Bayḍā’とよばれる)の拡大,織物と皮革に代表される商工業の発展およびスペインと西サハラのマリ帝国との活発な交流などと相まって,学問・文化が非常に栄えた。やがて,新・旧両市街地は,新フェス(ファース・アルジャディーダ),旧フェス(ファース・アルバーリー)とよばれるようになり,14世紀初めには新フェスにユダヤ教徒居住区が建設されるなど,市街地は拡大し続けた。14世紀中ごろ,アブー・イナーンの治世下の人口は,20万人を擁し,またモロッコ最古のモスクであるカラウィイーン・モスクJāmi'al-Qarawiyīn(9世紀中ごろ建設。12世紀初めに今日の規模に拡張)には,8000人の学生が寄宿していたといわれる。しかし,14世紀末からのマリーン朝の衰退と内乱や,マラケシュを都としたサード朝(1549-1659)の建国などによって徐々に繁栄を失っていった。サード朝の後のアラウィー朝(1631-)下でも,しばしば政治的闘争による被害があったが,王朝建国に協力したウーダーヤ部族の新フェスの居住地建設(17世紀末~18世紀初め)やマウラーイ・アブド・アッラーフによるフェスへの遷都(18世紀中ごろ),モスクやマドラサの建設,橋や新フェスの道路舗装などの土木工事が行われた。しかし,芸術的・技術的レベルの進歩はみられない。
20世紀に入り,1912年モロッコのフランス保護領化の協定(フェス条約)がここで調印され,一時国際的にも注目された。現在,市街地は新・旧両フェスの旧市街地と,20世紀になって旧市街地の南西方向にフランス人が建設した新市街地とからなる。後者には,近代的なホテルや官庁が建ち並ぶ。アルジェリア国境と大西洋岸とを結ぶ道路や鉄道が通過するが,交通の要衝としての機能はかつてほど大きくはない。産業では伝統的な皮革業,織物業,蹄鉄業などが有名である。また,旧市街地を訪れる観光客は多く,カラウィイーン・モスク,アブー・イナーン・マドラサ,アッターリーン・マドラサ,マウラーイ・イドリースのザーウィヤ(修道場),スーク(市)など魅力に富む歴史的名所が散在し,さらに迷路のような狭い道には,人間や動物の喧騒とさまざまな物の臭気が充満し,独特の雰囲気をつくり出している。たしかに経済的・文化的地位は相対的に低下したが,宗教的・学問的威厳は保たれ,それはイスラム神学研究の中心たるカラウィイーン大学およびモスクに継承されている。
執筆者:私市 正年
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…赤いフェルトでつくられた円筒状で,小さな房飾を中心から垂らした帽子。おもにオスマン帝国時代のトルコで用いられ,トルコ語ではフェスfesとよばれる。この名称はモロッコのフェスで製作されたことに由来する。…
※「フェス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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