日本大百科全書(ニッポニカ) 「インカ文化」の意味・わかりやすい解説
インカ文化
いんかぶんか
南アメリカ、ペルー南部のクスコ盆地を中心として、15世紀から16世紀初めまで栄えた文化。北はエクアドルから南はチリ中部に至る大帝国を形成し、それまでのアンデス文明を集大成した。
[増田義郎]
インカの歴史
インカ人は別名ケチュア人ともいい、その起源は明らかでないが、伝説を総合すると、13世紀ごろクスコ盆地に侵入し、先住民族を征服、定住したと考えられている。征服者スペイン人たちが記録したインカの伝承によれば、初代マンコ・カパック以後13人の皇帝がたったことになっているが、第7代までは伝説上の人物である。第8代皇帝ビラコチャの時代に、強敵チャンカ人の攻撃を受け、それを撃退することに成功したその子ティトゥ・クシが、第9代皇帝パチャクティとなって種々の改革を行い、周辺の諸民族の征服を開始して、帝国形成の基礎をつくった。パチャクティ自身が征服したのは、ティティカカ湖沿岸のルパカ人、クスコ東方のアンティスーユ地方などに限られていたが、その子トゥパク・インカ・ユパンキがペルー北部に攻め入ってチムー王国を滅ぼし、さらにパチャクティの死後、エクアドルやチリ、アルゼンチンの北部も征服された。15世紀末にこのインカ(王の意)が死ぬと、ワイナ・カパックがインカとなり、エクアドル地方の開拓に力を注いだため、元来の首都であるクスコに拠(よ)るインカ支配層と、エクアドルのキトに拠るインカ部将との間に対立が始まった。そして、1525年ごろワイナ・カパックが没したあと、クスコにはワスカル、キトにはアタワルパがたち、やがて1531年ないし1532年に内乱が起こった。
だが、アタワルパ軍がクスコ側を完全に制圧した直後、ピサロに率いられたスペイン軍が侵入し、1532年11月16日、高原の町カハマルカでアタワルパは捕らえられて、事実上インカ帝国は崩壊した。その後、マンコというインカが反乱を起こし、その子供たちが1571年までクスコ北西の山中に立てこもってスペイン人に抵抗を続けた。
[増田義郎]
政治・経済
インカ文化のうちでもっとも注目されるのは、その政治制度と経済統制の方法である。理論上、インカ国家においては、各地方の土地を三分して、インカ、太陽神、一般人民のために耕作が行われ、インカ、太陽神のための収穫物は倉庫に収められて、一部はクスコに送られた。したがって、クスコは全国から集まる膨大な物資の集積所となり、それを利用して、インカは、人民を大土木事業や軍隊のために徴発することができた。動員のため、人口は、十進法によって10人、100人、1000人の集団にまとめられ、1万人を単位としたウニュに対して行政責任者が任命された。
全国は四つの地方に分けられ、それぞれ皇族のなかから知事が任命された。さらに、重要地点には行政官が送り込まれる一方、トコイリコクという巡察使が各地を巡り、毎年人口統計をとったり、裁判を行ったりした。税として納入された物資の輸送、軍隊の移動などのために、全国に道路網がつくられ、至る所に宿場と倉庫が設けられて、旅行者の便宜を図った。また、チャスキとよばれる飛脚が首都と各地とを連絡した。軍事や祭祀(さいし)のための物資の生産は、各地につくられた「処女の館(やかた)」において、若い女性たちの手で行われた。首都には、太陽神やインカに仕える女性たちがいたが、アクリャすなわち「選ばれた者」とよばれた。男性では、ヤナコーナとよばれる使用人が各地の共同体から引き抜かれ、インカ貴族の所有する私有地の耕作や家畜の番人を務めた。ミティマエスという強制的な人口移動も行われた。
国家統合のために太陽神の信仰や公用語(ケチュア語)の使用が強制されたが、インカ社会の基本単位はアイユとよばれる各地の共同体であり、また、インカ以前の地方勢力が編成した政治組織や、アンデスの高度差を利用した巧みな生産体系もほとんどそのまま踏襲された。
[増田義郎]
物質文化
インカ人は鉄器を知らず、基本的には新石器段階の物質文化をもっていた。車、文字などを知らなかったが、道路の建設や飛脚制度などがその欠を補った。記憶補助用具として、キープとよばれる結節縄が用いられた。建築には、精巧な石工術を用いた壮大な神殿、宮殿などが多く、その遺構は今日でもクスコ市およびその周辺に多数残っている。地方にインカ人が建造した都市の遺跡としては、ボリビアのインカリャクタ、ペルーのビルカスワマン、ワヌコ・ビエホ、エクアドルのインガピルカなどが代表的である。鉄は知られていなかったが、冶金(やきん)術は広く行われ、青銅器は、装飾器のみならず生産具も製造された。金銀加工品の大部分はスペイン人に略奪されたため、小形の動物像や人間像しか残っていない。土器型式のうちでもっとも典型的なのは、取っ手のついた尖底(せんてい)彩色土器であり、器形はほとんど一定しているが、装飾技法や文様はさまざまであり、重厚な美しさをもっている。ケロという、インカ特有のコップ型の木器もつくられた。
布地は、伝統的な居座機(いざりばた)で織られたが、上流階層のためのクンビという洗練された織物と、庶民のためのアバスカという並製の織物とが区別された。男性の衣類は胴着と腰帯であり、寒いときにはその上にポンチョをまとった。女性の場合には、腰のところを広い飾り帯で留めた長い衣服を着、その上に毛のショールまたはマントを羽織って、それをトゥプという金属の飾りピンで留めた。男女ともオホータという革底のサンダルを履いた。また、リャウトという布の頭飾りをつけたが、その形と色は各地の民族集団ごとに違っていて、一種の標識となった。
[増田義郎]
生産と交易
インカの基本的産業は農業であり、海岸低地や高地の盆地、谷間などで、トウモロコシ、マメ、トウガラシなどがつくられ、また高地では、ジャガイモ、キヌア、オカ、オユコなどが耕作された。アンデス東斜面ではコカ、ユカなどがつくられた。高原の盆地や狭い谷間における農業生産を向上させるため、階段畑による斜面の利用が積極的に行われた。
農耕を補う重要な産業としては牧畜と漁業があった。牧畜は、標高4000メートル以上の高地に適応したリャマ、アルパカの飼育であり、毛や肉が資源となったが、同時にその糞(ふん)は高地農耕のために不可欠の肥料であり、また収穫期の作物輸送のためにリャマが利用されたから、高原の牧民と農民との間には共生的な関係があった。リャマ牧民は、さらに、アンデス東斜面のコカ産地や、海岸地方までもキャラバンを組んで旅行し、交易によってそれらの地方の産物を手に入れ、それをさらに高地の農民の産物と交換したから、彼らは一種の交易商人の役割を果たしていたといえる。牧民が海岸地方から山地に運んだ品目は、塩、グアノ(海鳥の糞。肥料として用いられた)、干し魚、干した貝、海草類、乾燥した果物、海エビなどである。漁民は、ペルー海流の豊かな資源を捕獲し、内陸の住民と交換を行っていた。南ペルー海岸のチャラからは、飛脚によって鮮魚がクスコのインカに届けられたという。漁民のほかに、バルサとよばれる帆を張った筏(いかだ)に乗り、太平洋沿岸を航行して通商を行う商人グループの存在も確認されている。
[増田義郎]
神話と宗教
インカの神話によれば、ビラコチャという名の創造主がこの世界と人間をつくったことになっている。天体のうちでも太陽(インティ)は最高の重要性をもち、その子マンコ・カパックがティティカカ湖に降ってインカの祖となったという。別の系統の神話によれば、クスコ南東のパカリクタンポの洞窟(どうくつ)から、マンコをはじめとするインカの祖先たちが出て、のちクスコに定住したインカの親族集団を開いたともいう。太陽のほかに、雷(イリャパ)、月(ママキリャ)、星などが神聖視され、また大地母神パチャママや水神ママコチャの信仰も民衆の間に広がっていた。聖なる霊が宿る場所はワカとよばれ、人工の神殿、聖所だけでなく、岩、山、泉なども含んだ。クスコには市を中心に350のワカがあって、それが市の中心から放射線状に発するセケとよばれる想像上の線の中に整然と配置され、セケの数は、インカの領土の4区分に対応して定められていた。
クスコの最高の神官はウィラク・ウマとよばれ、インカ皇帝と同じ権威をもっていて、すべての神殿、ワカを支配し、祭司の任命権をもっていた。クスコからは独立していた海岸地方のパチャカマの神殿は、その神託が重要視され、エクアドルからも巡礼が通ったという。
クスコおよび各地の神殿では、暦に従って祭礼が執行された。クスコのインカは、市の東と西の丘の上に石柱を立てて、日の出・日没の角度を観測し、1年12か月のサイクルを守ったのである。6月の冬至の日に行われた太陽の祭り(インティライミ)、9月に行われた月の祭り(コヤライミ)、12月に行われた大祭(カパックライミ)などがとくに重要であったが、祭りのたびに多数のリャマ、モルモットがいけにえに捧(ささ)げられ、大量のトウモロコシやチチャ酒が奉納された。また、殺したリャマの肺の状態を見て占うカルパという神託も祭りのたびに行われた。人間のいけにえは、新インカ(王)の即位のような特別の機会を除いては行われなかった。カパックライミに関連して重要なのが、ワラチクイとよばれる男子の成年式であった。14歳に達したインカの子弟は、12月になるとクスコの近くのワナカウリの丘の上にあるワカに連れて行かれ、リャマのいけにえ奉納、断食、その他の儀式のすえに、一人前の戦士として社会的に認められるのであった。
[増田義郎]
『ホセ・デ・アコスタ著、増田義郎訳『新大陸自然文化史』上下(『大航海時代叢書 第Ⅰ期 3・4巻』所収・1966・岩波書店)』▽『増田義郎著『沈黙の世界史12 太陽と月の神殿――新大陸』(1969・新潮社)』▽『増田義郎著『世界の歴史7 インディオ文明の興亡』(1977・講談社)』▽『ペドロ・デ・シエサ・デ・レオン著、増田義郎訳『インカ帝国史』(『大航海時代叢書 第Ⅱ期 15巻』所収・1979・岩波書店)』