巡察使(読み)ジュンサツシ

デジタル大辞泉 「巡察使」の意味・読み・例文・類語

じゅんさつ‐し【巡察使】

律令制で、太政官だいじょうかんに属し、臨時に設置された官。諸国を巡り、国司郡司の治績を調査し、人民の生活状態を視察して復命・上奏した。めぐりみるつかさ。
明治初期、東北地方に置かれた監督官

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精選版 日本国語大辞典 「巡察使」の意味・読み・例文・類語

じゅんさつ‐し【巡察使】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 奈良・平安時代、諸国地方官の治績を巡察し、人民の生活を視察する官。令制では太政官に属し、臨機に設置される官と規定されている。平安時代に消滅した。
    1. [初出の実例]「巡察使。〈掌察諸国。不常置〉」(出典:令義解(718)職員)
  3. 明治二年(一八六九)、岩代国(福島県)、三陸(宮城県・岩手県・秋田県・青森県)、両羽(秋田県・山形県)に置かれ、その地の監督にあたった職。同年廃止。同三年、豊後(大分県)に、同四年信濃(長野県)に一時設けられた。
    1. [初出の実例]「岩代国巡察使被仰付候事」(出典:第四六三‐明治二年(1869)五月一八日(法令全書))

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改訂新版 世界大百科事典 「巡察使」の意味・わかりやすい解説

巡察使 (じゅんさつし)

唐の官職名。常設ではなく,定員はない。名称も存撫使,按撫使などと一定でない。皇帝の直接任命により,地方行政の監察のため派遣された。その視察報告は地方官の勤務評定の材料とされた。634年(貞観8),13名の諸道黜陟(ちゆつちよく)大使(観風俗使ともいう)が派遣されたのが最初である。733-734年(開元21-22)に採訪処置使と改称して各道に常駐させるようになった。安史の乱中,観察処置使と改称し,以後しだいに監察官から州の上級区分の民政長官としての性格を帯びるようになった。
執筆者:

古代律令制下で,地方行政監察のため太政官より派遣された使。太政官に属するが常置の官ではなく,使者の員数や巡察内容も派遣のたびに定められた。巡察使は唐の制度に由来し,日本では685年(天武14)に東海・東山・山陽・山陰・南海・筑紫の六道に使者を送り,国郡司,百姓の消息を巡察せしめたのが確実な初例であるが,巡察使の名称の初見は694年(持統8)の,〈巡察使を諸国に遣わす〉という《日本書紀》の記事である。大宝令制定後は,703年(大宝3)に七道に派遣された巡察使の視察にもとづき国郡司の賞罰が行われたのをはじめ,795年(延暦14)までにしばしば派遣された。とくに712年(和銅5)には,以後毎年派遣することと定め,また758年(天平宝字2)には3年に1度の派遣とし,遣使の定期化をはかるなど,巡察使に対する期待が高まり,一定の成果をあげた時期もあったが,延暦年間(782-806)には勘解由使(かげゆし)の設置による国司監察方式の変化などの影響を受けて遣使の意義が薄れ,795年の巡察使任命も,2ヵ月足らずで派遣が停止されている。その後は830年(天長7)に巡察使が実動していたことが知られるにすぎない。なお1869年(明治2)にごく短期間,奥羽・北陸方面に置かれたこともある。
執筆者:


巡察使 (じゅんさつし)
missi dominici[ラテン]

フランク王国役人国王から派遣され,地方行政の査察を任務とする。巡察使の制度はメロビング朝(481-751)時代から認められるが,恒常的なものでなく,カロリング朝(752-987)時代に国内行政の重要な機構として,恒常的制度となった。巡察使は担当管轄区ごとに聖職者俗人の2名が任命され,年4回巡回する。国王の代理として大幅な権限を有し,地方官や教会聖職者の任務遂行を査察,報告し,国王にかわって住民忠誠宣誓を受けた。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「巡察使」の意味・わかりやすい解説

巡察使[フランク王国]
じゅんさつし[フランクおうこく]
missi dominici

カロリング朝時代のフランク国王が用いた地方行政官。地方の行政,司法,ならびに軍事行政など,各分野において伯 (→グラーフ ) の活動を監察する任務を帯びて,中央から定期的に派遣された。普通,同時に数名,多くは2名ずつ派遣されるが,この場合には1人が俗人貴族,1人が高級聖職者であった。王権への依存性を確保するため,巡察使は年ごとに新たに任命され,特別の訓令を授けられて,一定の時期に,それぞれ割当てられた管区を巡回した。フランスで 16世紀以来用いられた騎馬巡察官,その系譜をひき国王ルイ 14世のもとで確立をみた地方監察官 intendantは,ある意味でフランク時代のこの制度を模したものと考えられる。

巡察使[日本]
じゅんさつし[にほん]

古代,諸国を巡察して,国郡司の治政の調査にあたった官。持統8 (694) 年が初見。令制では太政官に所属。天長7 (830) 年以後は所見がない。近代になって明治2 (1869) 年3月奥羽の治政巡察のため,奥羽民政巡察使を設置,短期間に幾変遷を経て,同年7月按察使がおかれて廃止。

巡察使[中国]
じゅんさつし[ちゅうごく]
xun-cha-shi

中国唐代の官職名。皇帝の命によって地方政治を視察し,地方官の治績を評定した。貞観8 (634) 年に始り,開元 (713~741) の頃まで盛んであった。のち按察使安撫使と改称。

巡察使[イエズス会]
じゅんさつし[イエズスかい]

16~17世紀イエズス会が布教状況を査察するため各地に派遣した宣教師の称号を巡察使,巡察師と訳す。日本では A.バリニャーノが著名である。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「巡察使」の意味・わかりやすい解説

巡察使
じゅんさつし

令制(りょうせい)官職の一つ。太政官(だいじょうかん)に所属し、臨時に諸国を巡察して、地方官の監督や人民の視察にあたる官。令前では685年(天武天皇14)北陸道を除く六道別に使1人、判官(じょう)1人、史(さかん)1人を派遣して、国司、郡司および百姓(ひゃくせい)の消息を巡察させたのが初見。その後712年(和銅5)毎年派遣することになり、744年(天平16)には畿内(きない)七道諸国に遣わし、32条の巡察式(執務の細則)を発布した。このときの構成員は、西海道は四等官(しとうかん)、他は三等官制である。758年(天平宝字2)に至り三年一巡の制を定め、795年(延暦14)いったん中止。824年(天長1)再置したが、830年以後は廃止された。

[渡辺直彦]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「巡察使」の解説

巡察使(じゅんさつし)
Missi dominici

カロリング朝時代に地方統治の監督や調査・査察任務などの目的で創設された制度。802年にカール大帝が,聖職者2名,俗人2名の計4名からなる制度として発足させた。帝国全土が巡察使管区(missaticum)に区分され,ルイ1世(敬虔王)の時代には国王法廷に代わって控訴審の役割を果たした。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「巡察使」の解説

巡察使
じゅんさつし

律令制下,諸国司の監察のために地方に派遣された使者。唐の制度を模倣したもの。律令の規定では太政官に属するが,必要に際して臨時に任命され,七道の各道ごとに派遣された。685年(天武14)を初見とし,8世紀には頻繁に派遣されたが,795年(延暦14)にいったん停止された。その後,勘解由使(かげゆし)・観察使の設置と廃止を挟んで,824年(天長元)に再び派遣されたが,同年の勘解由使再置後は派遣されなかった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「巡察使」の解説

巡察使
じゅんさつし
Missus Dominicus (ラテン)

フランク王国のカール1世(大帝)によって確立した,行政的調査や役人および地域状況の把握を行う役職
メロヴィング朝の時代から認められるが,カロリング期に国王巡察使として恒常的な制度となった。カール大帝によりフランク王国は巡察使管区に分けられ,司教などの高位聖職者と俗人有力者の2人が,年4回巡回を行うこととされた。彼らは約500にもおよぶ伯たちの司法・行政を監督し,王国の中央集権に貢献した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「巡察使」の解説

巡察使
じゅんさつし

律令制下,太政官に属する臨時の視察官
諸国を視察し,人民の窮乏を調査する役職。694年に始まり,712年に毎年の巡察,758年には3年に1回となり,830年に廃絶。

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世界大百科事典(旧版)内の巡察使の言及

【按察使】より

…中国,唐から清までの上級地方官名。唐は全国を10道に分けたが,最初は特定の官を置かず,巡察使,存撫使などの名で,地方の水旱,刑獄,勤務状況などを査察させた。711年(景雲2)それが10道按察使として固定し,改廃もあったが,玄宗時代まで継承され,秋冬に受持州県を巡察した。…

【カロリング朝】より

…キェルジーQuierzy‐sur‐Oiseの勅令が,王とともに遠征して戦死した伯の男子に,伯職の継承を認めたことは,事実上この職や,ひいては恩貸地をも世襲化することになった。 伯は絶えず王の巡察使の監督をうけていたが,その管区に属する臣下のすべてを掌握してはいない。王はおりにふれて臣下の忠誠誓約をとりつけたが,忠誠誓約者fidelesが教会信徒fidelesと同じ語で呼ばれるところから,〈教会と朕のフィデレスfideles〉という定式句を作り,教会と国家の統一,さらに国家全体の統一を印象づけようとした。…

【巡回裁判】より

…官僚機構や貨幣による報酬,交通手段などの不備な時代には,地方在住の地方役人に大きな権限を与えると土着貴族化し,地方分権化の危険が多かったため,中央の宮廷から臨時的に派遣される裁判官による裁判および地方役人の監督方法であった巡回裁判制は,中央政権が地方を統一的に統治する一つの有効な手段であった。フランク王国9世紀のカール大帝による巡察使が早期の例として有名であるが,イギリスではとりわけ12世紀後半から組織的にこれが使われだし,地方法の駆逐,王国共通法であるコモン・ロー形成に一役買っており,現在でも英米法系の司法制度の一特色として残っている。 イギリスでは,長い間高等法院の裁判官を中心に七つの巡回区を定期的に巡回していたアサイズ裁判assizesという巡回裁判があったが,1971年の大改革によって廃止され,現在は上位裁判所がイングランドとウェールズを通じてロンドンにしかない点では変わらないが,地方での裁判組織は,民事は全国を約400の管区に分け,そのそれぞれにカウンティ裁判所があり,それらのいくつかがさらに一つの巡回区にまとめられている。…

【フランク王国】より

…この政策がどの程度貫徹したかについては,新旧の学説で評価が分かれるが,少なくともカール大帝の下では,かなりの成功を収めたことは疑いない。さらに大帝はグラーフの任務遂行を監督するため,国王巡察使制度を強化し,詳細な報告を要求した。だがこのような中央集権的統治も,カール大帝のような優れた統治能力をもつ人間の下でのみ可能であったので,王権の弱体化した後期カロリング朝時代には,グラーフの在地豪族化の傾向を抑えることはできなかった。…

※「巡察使」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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