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フランスの画家。故郷のサン・カンタンで素描を学び、ついでパリの美術学校の建築科に入学するが、絵画へと方向を転じ、いわばキュビスムの外周にあって、そのより純粋な、非主観的な世界を目ざす。1915年より17年まで雑誌『エラン』を発行し、ここで彼のピューリスム(純粋主義)の理論的基礎を置き、17年ジャンヌレ(後のル・コルビュジエ)と出会い、翌年、2人の共著による『キュビスム以後』でピューリスムを宣言する。その後20~25年、やはりジャンヌレとともに雑誌『エスプリ・ヌーボー』を発刊し、かたわら総合的キュビスムの厳密化というべき作品を発表。35年よりロンドン、38年以降はニューヨークに住み、ここでオザンファン美術学校を創設。第二次世界大戦後帰国し、パリに没した。
[中山公男]
フランスの画家。サン・カンタン生れ。初めキュビストとして活躍したがこれに十分満足せず,1918年に画家で建築家のジャンヌレCharles-Édouard Jeanneret(ル・コルビュジエ)と共に〈ピュリスムpurisme(純粋主義)〉を提唱して,明確な線および形,簡潔な画面構成を強調し,造形言語の純化を企てた。20-25年,共同で雑誌《エスプリ・ヌーボーL'Esprit Nouveau(新しき精神)》を刊行。30年以降,パリ,ロンドン,ニューヨーク(1938渡米)で美術学校を設立。理論家として優れ,〈ピュリスム〉宣言である《キュビスム以後》(1918,ジャンヌレと共著),《近代絵画》(1925,同,邦訳1968)等の著書がある。
執筆者:八重樫 春樹
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…また,家は〈住むための機械machine à habiter〉であると語り,近代建築理論を導いた。 他方,1917年,画家A.オザンファンと出会い,翌年彼と《キュビスム以後》を著し,装飾に堕したとキュビスムを批判し,機械にイメージを求めて明確・簡潔な抽象造形を目ざす〈ピュリスムpurisme〉を唱える。また20年《エスプリ・ヌーボーL’Esprit Nouveau(新しき精神)》誌を創刊。…
※「オザンファン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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