改訂新版 世界大百科事典 「カラー映画」の意味・わかりやすい解説
カラー映画 (カラーえいが)
スクリーンに〈色〉や〈音〉を加えたいというのは,映画が生まれて以来の人々の願望であり,はやくからそのための努力と試みが繰り返された。カラー映画color filmと呼ばれるものには,技術的に大別すれば,白黒の画面に着色した〈彩色映画〉と,写真技術によって被写体そのままの色を再現した〈天然色映画〉がある。〈彩色映画〉には,染料でポジティブの一部分あるいは全体を染色tintingする方法と,ポジティブの画像を調色toningする方法がある。染色法は,映画の初期から考えられ,初めは1コマずつ手工芸的に染色されたが,1896年ころにイギリスとフランスで型紙を使う〈型紙染色法stencil process〉が考案され,1910年ころまで各国で広く使われ,日本では〈極彩色映画〉として公開された。調色法は,ポジティブの銀像の粒子をほかの金属または化合物でめっき,あるいは置換する方法で,のちに,より豊富な色彩を調色する〈染料調色法dye toning〉が発見された。
G.メリエスのトリック映画には彩色された作品が多く,また,最初の西部劇といわれるE.S.ポーターの《大列車強盗》(1903)のオリジナルプリントでは,巻末の強盗の拳銃発射が赤く彩色された。初期の〈彩色映画〉では,たいてい夜の場面はブルー,日光は淡黄色,火は赤,野原や森はグリーンに彩色され,イタリア映画《ポンペイ最後の日》(1913)の最後の巻は,ベスビオ山の噴火が赤,空はダークブルー,炎はオレンジに彩色され,D.W.グリフィスの《国民の創生》(1915)や《イントレランス》(1916)にもいくつかのカラー・シークェンスがあった。
染色法や調色法による〈彩色映画〉は,フィルムに任意の色を人工的に着色したものであり,自然の色彩をフィルムに光学的に再現した〈天然色映画〉が,現在の〈カラー映画〉である。天然色再現法true-color-reproduction systemには,〈加色法additive process〉と〈減色法subtractive process〉があり,実際的で商業的に成功した最初の加色法は,G.A.スミスが1906年にイギリスで特許をとり,スミスとC.アーバンが設立したナチュラル・カラー・キネマトグラフ社を通じて活用した〈キネマカラー〉で,最初のカラー映画《デリーの謁見所》(1911)が作られた。〈キネマカラー〉は,白黒フィルムとカラーフィルターを使う2色加色法で,ふつうの速度の2倍,1秒に32コマの速度で撮影,映写され,目が疲労し,フィルムの損耗がはやく,色がずれるなどの欠点があった。15年,H.T.カルマスとD.F.カムストックが,マサチューセッツ工科大学の博士号をもっていたことから,テクニカラー・モーション・ピクチャー・コーポレーションと名づけた会社を設立して〈テクニカラー〉の実験を始め,22年に2色減色法を発見し,2色テクニカラー・システムによる最初のカラー映画《恋の水蓮Toll of the Sea》(1922)が作られた。また,サイレント版の《十戒》(1923)などでも部分的なカラー・シークェンスに使われ,ダグラス・フェアバンクスの《海賊》(1926)は全巻このシステムで撮影された。
テクニカラーとその後のカラー映画
サイレント映画からトーキーへの転換期のアメリカ映画は,色彩を一つの〈呼物〉としてミュージカル映画などにカラー・シークェンスを入れ,さらに,他社に先んじてトーキーを手がけたワーナー・ブラザースは,〈オールトーキー=オールカラー〉と称するミュージカル映画《オン・ウィズ・ザ・ショー》(1929)を作ったが,技術的に未完成で費用がかかり,新しい機運は熟さずに終わった。しかし1932年,3色減色法の〈テクニカラー〉が完成し,このシステムによるウォルト・ディズニーのアニメーション漫画《森の朝》(1932)がアカデミー賞を受賞し,パイオニア社の音楽舞踊短編《クカラチャ》(1934)が作られ,《ロスチャイルド》(1934)のカラー・シークェンスにもこのシステムが使われた。そして,このシステムによる最初の長編劇映画《虚栄の市》(1935)で心理描写を色彩効果によって強調する独自の領域が開拓され,カラー映画も〈成人〉に達したと評価された。続いて《丘の一本松The Trail of the Lonesome Pine》(1936)ではテクニカラーによる最初の野外撮影が行われ,《砂漠の花園》(1936),《スタア誕生》(1937),イギリス映画《暁の翼》(1937)などを経て,《風と共に去りぬ》(1939)の成功によってカラー映画は一つの頂点に達し,〈テクニカラー〉は〈カラー映画〉の同義語になった。なお,39年にはアカデミー賞にカラー撮影部門が設けられている。
42年,テクニカラー社は,3本だったネガティブが1本ですみ,専用カメラの代わりにふつうのカメラでカラー撮影のできる〈モノパック・システム〉を開発し,アメリカではほとんどの大作が色彩化された。イギリスでも第2次世界大戦中から戦後にかけてカラーの表現が発達し,テクニカラー作品《ヘンリー5世》(1945),《天国への階段》(1946)などが作られた。なお,1930年代から40年代にかけて〈テクニカラー〉のほか,アメリカの〈イーストマン・カラーEastman color〉,ドイツの〈アグファカラーAgfacolor〉,イタリアの〈フェラニアカラーFerraniacolor〉,ベルギー=フランスの〈ゲバカラーGevacolor〉など各国でいろいろなカラー・システムが相次いで開発され,〈アグファカラー〉は45年,ドイツの敗戦とともにソ連に接収され,改良を加えた〈ソブカラーSovcolor〉で《石の花》(1945),《イワン雷帝(第2部)》(1946,公開は1958),《シベリア物語》(1947),《せむしの子馬》(1948)などが作られた。
色彩再現の技術的進歩につれて,長い間映画が観客を引きつけるための趣向,あるいは目新しさの対象であった色彩が,芸術的表現の重要な要素として扱われるようになり,第2次大戦後,M.パウエルとE.プレスバーガー監督の《黒水仙》(1947)や《赤い靴》(1948),ジョン・ヒューストン監督の《赤い風車》(1952),衣笠貞之助監督の《地獄門》(1954),ルキノ・ビスコンティ監督の《山猫》(1963),ミケランジェロ・アントニオーニ監督の《赤い砂漠》(1964)そのほか,各国のいろいろなカラー・システムによる色調と色彩効果,作家独自の色彩表現とスタイルが示された。
カラー映画の製作は世界各国で一般化したが,アメリカ映画を例にとると,47年に製作されたカラー映画は長編劇映画の12%にすぎなかったが,54年には50%を超えた。とくに52-55年に白黒映画からカラー映画へ急速に転換したのは,1950年の独占禁止令がテクニカラー社のカラー映画撮影にかかわる独占を解体し,〈テクニカラー〉の基礎的なパテントをあらゆる製作業者に開放するよう命じたことによって,イーストマン・コダック社の〈イーストマン・カラー・システム〉のように新しいタイプのフィルムを使う低コストのカラー・システムが開発され,このシステムによる〈ワーナーカラー〉〈メトロカラー〉〈パテカラー〉〈デラックス・カラー〉などが普及したためであった。同時にそれは新しい科学技術でハリウッドをおびやかしたテレビジョンとの競争の結果でもあった。
ハリウッドが映画をテレビジョン会社に売却して,劇場用映画の重要な第二市場を作り出し始めた55-58年に,1954年には全体の50%を超えたカラー映画は25%まで減少した。当時のテレビジョン放送はほとんどが白黒だったので,白黒映画を作ることが製作費を節減する効果的な方法だったからである。しかし,65-70年にテレビジョンがカラー放送に転換するにつれて,カラー映画は劇場およびテレビジョン市場に不可欠の魅力となって製作が激増し,70年には全体の94%,79年には96%に達している。
→映画
執筆者:柏倉 昌美
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