イワン雷帝(読み)いわんらいてい(英語表記)ИВАН ГРОЗНЫЙ/Ivan Grznyi

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イワン雷帝」の意味・わかりやすい解説

イワン雷帝
いわんらいてい
ИВАН ГРОЗНЫЙ/Ivan Grznyi

セルゲイ・エイゼンシュテイン監督のソ連映画。第1部(1945)と第2部(1946)に分かれる。第二次世界大戦中、国民の士気高揚のためスターリンの強い希望で注文された国策映画。原作はアレクセイ・コンスタノヴィチ・トルストイイワン雷帝の伝記小説。この小説にスターリンは心酔しており、本の裏表紙に「我が師」と記し、また、本文中のいたるところ傍線を引き、赤字で「そのとおり」と書き込むなどして、イワンに自己を投影していた。映画中のイワン雷帝はスターリンその人とみるのが一般的である。第1部では、イワン雷帝は民衆を味方につけて外敵を打ち破り、大貴族の離反や王妃毒殺という陰謀にもくじけず、皇帝の命令のみに従う親衛隊を結成し、賢知と雄々しさをみせつける。第1部はスターリンを満足させ「スターリン賞」を受賞。

 第2部では、親衛隊を率いて大貴族と宗教勢力を次々と粛清し、雷帝を名のって恐怖政治を敷くも、おのれの行為の当否に懊悩(おうのう)し、決断力のない弱々しさをみせる。しかし、ついには、王妃毒殺の実行者で反対勢力の代表である伯母エフロシニアのイワン暗殺計画を逆手にとり、刺客に彼女の子の無垢(むく)のウラジーミルを間違い殺人させてしまう。陰惨かつ異様な様式が際だつ宮廷陰謀劇である。第2部はイワンをハムレットのように優柔不断に、また、親衛隊を変質者の集団のように描いたとして、スターリンの不興を買い、公開禁止となった。第2部はフィルムの行方がわからなかったが、エイゼンシュテイン没後10年経った1958年に奇跡的に発見され、初公開となった。『戦艦ポチョムキン』に次ぐ監督の第2の頂点として評価される一方、スターリニズムへの翼賛ないしは和解作、という批判も少なくない。

[田中 陽]

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改訂新版 世界大百科事典 「イワン雷帝」の意味・わかりやすい解説

イワン雷帝 (イワンらいてい)
Ivan groznyi

ソビエト映画S.M.エイゼンシテイン監督の最後の作品。16世紀に初めてロシアを統一した皇帝イワン4世の生涯と時代を描く三部作として構想されたが,1944年に第1部,46年に第2部の2作のみ完成。7歳で帝位に就いたイワンが,やがて〈雷帝〉と呼ばれる専制君主となるまでを描き,〈偉大なるロシア国家達成のために!〉という雷帝の叫びとともに終わる第1部は絶賛を浴び,スターリン賞を受賞。しかし,権力者の孤独,専制政治の悲劇を描いた第2部は,全ソ共産党中央委員会から,〈歴史的事実の描写における無知をさらけ出した〉ものであり,〈進歩的な軍隊であるイワン雷帝の親衛隊を,アメリカのクー・クラックス・クランのような変質者の徒党として取り扱い,強い意志と性格をもったイワン雷帝を,まるでハムレットに似通った弱い性格と意志のない人間として描き出した〉と批判され,改作を余儀なくされた。エイゼンシテインは48年2月に病死したが,〈スターリン批判〉以後の58年にようやくそのままの形で公開された。第3部は半分まで撮影されたといわれている。〈政治にとらわれた形式主義の映画〉という批判的な見方に対して,チャップリンのように〈詩人の精神で歴史を扱った〉〈もっとも偉大な歴史映画〉という賛辞もある。この映画の構想は,エイゼンシテインの映画理論の一つの実践,とくに〈色彩〉へのアプローチから生まれ,第2部のラスト近くの〈宴会〉のシーンにカラーが試みられている。これは,最初は当時の色彩技術の水準の低さのために黒白で撮らざるをえなかったのが,第2部の製作中に,ソ連軍がドイツを占領してアグファカラー・フィルム現像所を接収したことから実現されたものといわれる。音楽(29曲)はプロコフィエフが担当。
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デジタル大辞泉プラス 「イワン雷帝」の解説

イワン雷帝

1944年製作のソ連映画。ロシア史上初めて“ツァー(皇帝)”を称したイワン4世の半生を描く。セルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督の遺作。出演:ニコライ・チェルカーソフほか。

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世界大百科事典(旧版)内のイワン雷帝の言及

【イワン[4世]】より

…在位1533‐84年。ロシア史上最も強力かつ個性的な君主の一人で,イワン雷帝と呼ばれる。多くの歴史家や芸術家(A.K.トルストイ,レーピン,エイゼンシテイン)にとりあげられているが,1626年のモスクワ大火で記録の大半が焼失しているため,その生涯や人柄,政治的役割には不明の個所が多い。…

【エイゼンシテイン】より

… 37年,ツルゲーネフの小説をもとにつくられた農村映画《ベージン草原》は,映画局長ボリス・シュミヤツキーによって《プラウダ》紙上で攻撃されて未公開に終わり,エイゼンシテインは自己批判を強いられるが,シュミヤツキーの解任後,ナチス・ドイツの脅威に対して士気を高揚するためにつくられた歴史映画《アレクサンドル・ネフスキー》(1938)は,エイゼンシテインに対する批判・非難をはらいのけてレーニン勲章を授与される。40年にソ連最大の撮影所モスフィルムの芸術部門の指導者に任命され,《イワン雷帝》第1部(1944)を完成するが,間接的なスターリン批判になっているとされ上映を禁止された第2部(1946)の改作中,50歳の誕生日を迎えてまもなく心臓発作で死亡。第2部は彼の死後10年たった58年にやっと公開された。…

※「イワン雷帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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