翻訳|Hollywood
アメリカ映画製作の中心地。ロサンゼルスの一地区で中心から北西約13kmに位置する。
1870年代に自作農場入植者たちが定住しはじめたころはまだハリウッドという名称はなく,86年にこの地の大きな農場へ隠退したカンザス・シティの不動産業者ホレス・H.ウィルコックス夫妻が,カリフォルニアではholly(セイヨウヒイラギ)が育たないにもかかわらず,シカゴにいる友人の別荘の名まえをかりて農場を〈ひいらぎ(holly)の森(wood)〉,すなわち〈ハリウッド〉と名づけたという伝説的な命名の由来がある(ハリウッドを日本語で〈聖林〉と書いたのはhollyとholyを混同した誤訳だったらしいが,おもしろいことに,フランスでもマルセル・レルビエがHollywoodをBois Sacré(聖林)と訳して紹介している)。91年,ウィルコックス夫妻は農場の土地の分割を始める。そして1889年には農場の名まえをとったハリウッド村として合衆国の郵便台帳に記載され,1910年には水道と汚水処理施設を利用できるように住民投票によってロサンゼルスの一地区として編入された。
初期のアメリカ映画の製作の中心地はニューヨーク,シカゴなど東部の都市で,西部劇はニュージャージーの荒野で撮影されていた。しかし,1年365日のうち300日は晴れているといわれる常夏の太陽の地であり,雪をいただく山脈から荒涼とした砂漠にいたるまで,さまざまな地形などの自然条件に恵まれた南カリフォルニアのロサンゼルス近郊が映画製作の中心地になることは時間の問題だった。それを最初に発見したのは,トマス・エジソンのライバルであったシカゴの映画製作者ウィリアム・N.シーリグWilliam N.Selig(1864-1948)で,《モンテ・クリスト伯》(1908)の屋内場面をシカゴで撮影したのちロケーションのためカリフォルニアへでかけ,つづいて《サルタンの力のなかで》(1908)をすべて西部で撮影したのが,そもそものハリウッドの発見であった。
映画の都ハリウッドの成立と建設については,映画史家の間にもいろいろな説があるが,1909年にエジソン,バイオグラフ,バイタグラフ,カレムなど9社がカメラ,映写機,フィルムなどについて16の特許を保持するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニーと称するトラストを結成したため,トラストの監視からのがれようとした独立製作者たちがニューヨークから遠く離れたカリフォルニアで製作を始め,ネスター社が11年にハリウッド最初の撮影所をつくったのにつづいてトラスト加盟各社も相次いでハリウッドに撮影所をつくり,こうしてアメリカの映画製作はわずか数年のうちにロサンゼルスとその近郊に集中し,反トラスト派の中心人物カール・レムリのユニバーサル社が,サン・フェルナンド・バレーにユニバーサル・シティと呼ばれる映画都市を建設した15年ころに,ほぼハリウッド建設は完了したというのがもっとも一般的な説である。
映画製作の中心がこのように東部から西部へ移ったことについては,トラストをめぐる抗争,西部劇の流行,撮影に適した自然的条件などが原因としてあげられてきたが,《映画がつくったアメリカ》(1975)の著者ロバート・スクラーは,当時のロサンゼルスが組合のない都市として知られ,労働力はつねに過剰ぎみで,賃金水準もときによってはニューヨークの1/2くらいであったことがその重要な要素となったと指摘している。ともあれ,映画製作の目的のために好適な土地を選び,そのために一つの都市を建設したということは,映画がそれに必要な資本を手に入れ,技術的な条件も克服したということであり,映画事業の急速な膨張,経済的技術的な独立を意味するものであった。したがってハリウッドの建設は,企業としてのアメリカ映画の飛躍の結果であり,同時にその前進の原動力となった。
ハリウッドの歴史はアメリカ映画の歴史でもある。第1次世界大戦が始まると同時に,ヨーロッパではほとんどすべての国で映画の製作を中止したが,アメリカ映画は大戦中のアメリカ資本主義の成長におとらないテンポで膨張発展し,レオン・ムーシナックによれば〈アメリカは世界の陸地の6%を所有し,人口は7%,小麦の生産は27%,石炭は40%,電話の使用は63%,トウモロコシは75%,自動車は80%,そして映画の製作は世界の85%を超えて〉いた。そして1920年には,ヨーロッパから才能ある監督や俳優や技術者を〈輸入〉した主要撮影所のめざましい成長と〈スター・システム〉のおかげで,ハリウッドは毎年2億ドルを投じて800本近い映画を製作していた。カウボーイを偶像視した活劇が〈フロンティア・スピリット〉を賛美する西部開拓劇に変わった22年ころ,土地ブームが始まり,石油が発見されて,戦後の苦境と不況から脱出を夢みる人々がアメリカのいたるところから南カリフォルニアへ大挙して押しかけ,そのなかでハリウッドは〈夢の都〉であった。そして,1920年代半ばには,ハリウッドで製作されるアメリカ映画は世界映画市場の90%を占めるまでになり,自動車,鉄鋼,石油などと並ぶアメリカの5大産業の一つになった。
第1次大戦後の約10年間のアメリカ映画の世界制覇の基礎は〈スター・システム〉であり,そのスターは製作会社の道具であり,トレードマークであり,〈資本の要求〉によってハリウッドがつくりあげたものであった。そして映画の魅力がスター・バリューにおきかえられ,つくりあげられたスターたちの私生活をめぐる神話や伝説が宣伝され,ハリウッドは映画観客の夢の憧憬の中心となり〈夢の工場〉となった。同時に,殺人や麻薬,飲酒をめぐる事件など道徳的腐敗が相次いで暴露され,ハリウッドは〈スキャンダルの都〉としてジャーナリズムや宗教団体をはじめ社会の非難を浴び,1919年に設立されていたアメリカ映画製作・配給業者協会は,ハーディング内閣の郵政長官ウィル・H.ヘイズを年俸10万ドル(郵政長官の年俸は1万ドルであったという)で新会長に迎えて映画界の自粛と自主規制につとめた。
《ジャズ・シンガー》(1927)の成功によって映画はトーキーの時代を迎え,1928-29年の2年間だけで5億ドルを超える資本が新たに投じられたといわれる。映画のトーキー化は,金融資本との結びつきによって実現されたが,その結果ハリウッドはクーン・ローブ財閥,モルガン財閥などに代表されるウォール街によって直接に支配されることになった。しかし,29年10月にウォール街から始まって全世界に波及したアメリカの金融恐慌は,アメリカの〈永遠の繁栄〉の幻想をくつがえし,ハリウッドでも,アメリカ社会の不合理や矛盾を主題とした映画がつくられるようになった。ハリウッドは,トーキーの目新しさが客をひきつけていたために不況の波をかぶるのは少し遅れて33年にどん底を迎えたが(ハリウッドに俳優組合が結成されたのもこの年で,不況の反映といわれる),しかしアメリカ産業復興法の施行のおかげで34年には息をふきかえし始めた。
1935-41年は,ハリウッドの撮影所システムが一つの頂点に達し,主要撮影所がそれぞれの特徴あるスタイルをつくりあげて〈黄金時代〉を迎える。林立する油井やぐらと並んでサウンド・ステージがロサンゼルスのスカイラインを背景にそびえ,スターや会社幹部たちの豪壮邸宅が浜辺の一等地を占拠し,社交的な儀礼やゴシップや不義の情事がまるで南カリフォルニアを〈ベルサイユ宮殿の郊外〉のようにした。ギャンブルがハリウッドの社交生活に欠かせぬものとなり,その金で1930年代の南カリフォルニアに三つの競馬場ができたという。ハリー・レオン・ウィルソンの風刺小説《マートン・オブ・ザ・ムービーズ》(1922),ナサニエル・ウェストの《イナゴの日》(1939),バッド・シュルバーグの《何がサミーを走らせたか?》(1941),F.スコット・フィッツジェラルドの《ラスト・タイクーン》(1941)など,ハリウッドを描いた注目すべき小説には,そうした〈夢の工場〉ハリウッドの現実が生々しく描かれている。
第2次大戦が始まるとともに,アメリカ政府は映画を戦時重要産業に指定し,戦時情報局に映画部を設けた。重要産業に指定されたことによって,ハリウッドの映画人は召集その他の義務を免れる特権をあたえられたが,まず俳優組合がその特権の返上を声明,多くの映画人が積極的に軍籍に身をおいた。スターたちは戦意高揚のキャンプ・ショーや戦線の慰問活動に参加し,戦時公債,各種の基金・義援金の募集に参加し,さらに戦意高揚映画と〈エスケープ・ムービー(現実逃避の映画)〉の製作によって戦争に協力した。そして戦後を迎えたハリウッドは,スターや監督の復帰によってかつての好況をとりもどし,1946年には425本の映画を製作して史上最高の好成績を記録する。
しかし,その後,インフレーションによる製作費の高騰,テレビジョンの脅威,〈赤狩り〉(〈ハリウッド・テン〉の項を参照),独占禁止法による映画事業の部門分離などの難問をかかえて危機を迎え,メジャー各社がコングロマリットに吸収合併されて現在にいたることになる。
かつて,ハリウッドはもっともアメリカ的なものの一つに数えられ,ジョゼフ・ケッセルは〈蜃気楼都市〉と形容し,ブレーズ・サンドラールは〈映画のメッカ〉と呼んだ。ルイ・アラゴンやアンドレ・モーロアをはじめ世界各国の多数の芸術家や作家たちがこんなふうにハリウッドを論評し定義しており,それを集めただけで1冊の本ができるだろうとさえいわれている。イリア・エレンブルグには,《夢の工場》という皮肉たっぷりの痛烈な本があるが,このほかにもハリウッドについては軽蔑したり酷評したりすることばが多く,たとえば,《男の敵》(1935)の原作者として知られるアイルランドの作家ラリーアム・オフラティは〈アメリカ国民の知性を12歳程度に釘づけにしているのはハリウッドだ〉といい,アーネスト・ヘミングウェーは〈アメリカ文学を破壊するものはハリウッドだ〉といい,ハリウッドを訪れたイタリアの映画監督ロベルト・ロッセリーニは〈ハリウッドはすばらしいところだ。上等なソーセージをこしらえる工場みたいなところだ〉と語った(岩崎昶《映画芸術の歴史》(1958)による)。
また,メラネシアの先住民の研究家として知られる女流人類学者ホーテンス・パウダーメーカーは,1946-47年の1年間にわたって,ハリウッドを〈探検〉して,《夢の工場ハリウッド》(1950)という本を書き,ハリウッドの住民は,石器時代よりもっと原始的で迷信と恐怖心にとりつかれていると結論している。そのほか,イギリスのジャーナリスト,トーマス・ワイズマンがハリウッドを探訪して《ハリウッドの七つの大罪》(1957)を書き,撮影所宣伝部出身の記者エズラ・グッドマンが《ハリウッドの衰亡50年》(1961)を書き,映画作家ケネス・アンガーが《ハリウッド・バビロン》(1965)を書いて,ハリウッドのスキャンダルを告発している。イギリスの作家ポール・メイヤーズバーグはハリウッドの生活と製作現場のインタビューによる印象記《幽霊屋敷ハリウッド》(1967)を書いているし,ハリウッドのプロデューサーやスターの定評ある伝記や自伝には,かならずといっていいくらいハリウッドとハリウッドの映画製作に対する批判がこめられている。
なお,《栄光のハリウッド》(1932),《サンセット大通り》(1950),《悪人と美女》《雨に唄えば》(ともに1952),《スタア誕生》(1954),《サンセット物語》(1966),《女の香り》(1968),《イナゴの日》(1975),《ラスト・タイクーン》(1976)などがハリウッドの内幕を描いた映画作品として知られているが,ラディ・ベールマーとトニー・トーマスの共著になる《ハリウッドのハリウッド--映画の映画》(1975)によれば,ハリウッドを題材にしたハリウッド映画は200本を超えるという。
→アメリカ映画
執筆者:柏倉 昌美
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アメリカ合衆国、カリフォルニア州、ロサンゼルス市の地区。映画の都として世界的に有名である。同市のダウン・タウンの北西10キロメートルに位置し、映画、テレビ、ラジオなどの撮影所やスタジオが集中する。1940年代の映画全盛期の華やかさはみられないが、それでもメーン・ストリートのハリウッド通りを歩く観光客は引きも切らない。スターのサインや手形を集めたチャイニーズ劇場や蝋(ろう)人形博物館をはじめ、沿道のブティック、レストランも人気をよんでおり、ユニバーサル社などのスタジオ見学は観光コースの目玉となっている。1880年代に定住が始まり、最初は住宅地として発達したが、20世紀に入ってから映画産業の急速な進出がみられるようになった。1910年ロサンゼルス市に合併した。
[作野和世]
(宮本治雄 映画ライター / 2007年)
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