第1次世界大戦(読み)だいいちじせかいたいせん(英語表記)World War I

翻訳|World War I

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

第1次世界大戦
だいいちじせかいたいせん
World War I

1914~18年にヨーロッパのほとんどの国々,ロシア,アメリカ合衆国,中東諸国などを巻き込んだ大規模な国際紛争。ドイツ,オーストリア=ハンガリー帝国,オスマン帝国などの同盟国と,フランス,イギリス,ロシア,イタリア,日本などの連合国とが対戦し,1917年にはアメリカも連合国側に参戦,1918年同盟国側の敗北で終結した。
1910年の時点でヨーロッパの主要国は,ドイツ,オーストリア=ハンガリー対フランス,イギリス,ロシアの 2陣営に大きく分かれ,潜在的な対立関係にあった。1914年6月28日,ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで,オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビア人の青年に暗殺され,これが大戦の勃発を招く一連の事態を引き起こした(→サラエボ事件)。7月28日オーストリアがセルビアに宣戦布告すると,各国で総動員令の発布,宣戦布告が相次ぎ,8月半ばには二大勢力間の全面戦争へと発展した。
ドイツは以前から,西のフランス戦線と東のロシア戦線の二面での陸上戦を想定して軍事計画を進めていた。西部戦線では,ドイツはフランス国境の要塞突破を避けようと,迂回して中立国ベルギーへ侵入した。このため条約に基づいてイギリスがドイツに宣戦を布告した。その後ドイツ軍は向きを変え,パリへ向かった。イギリス派遣軍によって増強されたフランス軍は,エーヌ川に沿った防衛線で敵をくい止め,パリへの侵入を防いでいたが,結局支えきれず,11月以後は戦闘はフランス領内に拡大した。新型の大砲と機関銃の圧倒的な威力によって,戦闘は互いに塹壕を築いて対峙する消耗戦となった。前線の歩兵攻撃は一進一退で,攻撃のたびに両陣営とも莫大な数の戦死者を出した。西部戦線は膠着状態に陥り,1916年のソンム(→ソンムの戦い),ベルダン(→ベルダン会戦)での大規模な戦闘や 1918年のドイツ軍の猛攻でも決着はつかなかった。一方,東部戦線では 1914年,ロシアが東プロシア,ポーランド,ガリチアにまで進出したが,同 1914年末にはドイツ・オーストリアによってそれ以上の進撃を止められ,1915年5月に始まったドイツ軍の猛反撃で,領地内へ押し戻された。ロシアはその後も何度か攻撃を仕掛けたが,多数の戦死者を出しながら,ドイツ領土を奪うどころか,ドイツ軍の防衛線を突破することも不可能であった。
主要戦域からみれば周辺的なものであったほかの戦線,すなわちイギリスがオスマン帝国攻略に失敗したガリポリの戦いや,ロシア軍とオスマン帝国軍が戦ったカフカスやペルシア,イギリス軍がオスマン帝国軍と戦ったメソポタミアやエジプト(エジプトではトマス・エドワード・ロレンスに率いられたアラブ人も戦闘に加わった),膠着状態のイタリア軍とオーストリア軍が一連の激しい攻防で大きな損害を出したトリエステ北西部のイゾンツォ渓谷などでも多くの血が流された。海上では,ドイツとイギリスだけが十分な海軍力を保有していた。イギリスは海上封鎖によって,ドイツの海路からの食料・原材料補給を絶とうと試み,ある程度成功した。それに対してドイツは,新兵器の一つであった潜水艦による攻撃で,イギリス周辺の海上補給線を混乱させようとした。ドイツが無制限潜水艦戦を決行し,中立国の商船までが多数撃沈されるにいたって,1917年アメリカがドイツに宣戦布告した。
1916年5月,イギリス主力艦隊とドイツ外洋艦隊が交戦したユトラント沖の海戦は,第1次世界大戦を通じて唯一の,そして歴史上まれにみる大海戦であった。ロシアでは,戦場での劣勢と莫大な損失によって国民の不満が高まり,1917年3月に革命が勃発して皇帝ニコライ2世は退位,同年 11月には再び革命が起こり,ボルシェビキ政権が成立した(→ロシア革命)。11月28日,ウラジーミル・レーニンの指示でロシアは一方的に即時休戦を宣言し,1ヵ月後にはドイツとの正式な休戦協定を締結して戦争から手を引いた。ドイツは東部戦線にあてていた戦力を行きづまっていた西部戦線へまわしたが,これはアメリカ軍の参戦で相殺されてしまった。アメリカ軍の派兵は最初こそ小規模であったものの,急速に増強されて 1918年9月には 120万人にまで達し,その威力を見せつけた。
1918年の秋までに,同盟国側は急激に後退した。オーストリア=ハンガリーはイタリア軍に撃退され,国内ではロシア革命に勢いを得たナショナリストの蜂起が相次いだ。4~7月の西部戦線でのドイツの大攻勢が失敗に終わって,連合国側はしだいに前進を始め,1918年10月までにはフランスのドイツ占領地全部とベルギーの一部を奪還した。ドイツは軍も国民も戦意を失い,政情不安が全国に広まり,ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は 11月9日退位,その 2日後ドイツは連合国との休戦条約に調印した。1919年1月からパリで講和会議が開かれ,ドイツに対するベルサイユ条約が 6月に調印された。次いでオーストリアはサンジェルマン条約を,ブルガリアはヌイイ条約を,ハンガリーはトリアノン条約を,オスマン帝国はセーブル条約を連合国側との間で結び,第1次世界大戦は終結した。またこの戦争で航空機,戦車,潜水艦など,これまでの戦争ではみられなかった兵器体系が導入され,殺戮(さつりく)の大規模化を画す戦争となった。その悲惨な結果を繰り返さないことを願って,普遍的国際機構として国際連盟が創設されたが,同時に旧敵国に対する過酷な賠償や領土変更など敗者に対する報復措置がとられたことから,やがて大戦後の国際秩序に対してドイツ,イタリアが挑む原因をつくることとなった。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

第1次世界大戦

1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者が暗殺され、同国がセルビアに宣戦布告したことをきっかけに勃発。英独仏ロなどの欧州の大国を中心とする30を超える国や地域が連鎖的に参戦した。英仏ロや日本などの「連合国」が、独とオーストリア・ハンガリー帝国、オスマントルコなどの「同盟国」を破り、18年に終戦した。国家総力戦となり戦車や毒ガスなどが登場。犠牲者は兵士だけで約900万人とされる。

(2014-01-25 朝日新聞 朝刊 1総合)

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百科事典マイペディアの解説

第1次世界大戦【だいいちじせかいたいせん】

1914年7月28日から1918年11月11日,ヨーロッパを主戦場に世界的規模で行われた戦い。多くの近代兵器が使用され,一般国民をも巻きこんだ最初の総力戦であった。〔前史〕 19世紀後半に始まった列強の植民地分割は1900年ごろほぼ完了し,新たに列強間に帝国主義戦争勃発(ぼっぱつ)の危機が生じた。特にドイツ・イタリア・オーストリアの三国同盟と,英・フランス・ロシアの三国協商の2大陣営の対立が国際関係の軸となり,中でも三B政策による新興国ドイツと三C政策による英国との関係は常に緊張をはらんでいた。また多民族の混在するバルカン地域ではオスマン帝国の弱体化に伴う列強の干渉(東方問題)を背景に早くから民族解放運動が興っていた。とくにボスニア・ヘルツェゴビナのオーストリア・ハンガリー二重帝国への編入(ボスニア・ヘルツェゴビナ併合問題)はパン・ゲルマン主義を掲げるオーストリアに対するロシアの危機感を煽り,第1次大戦の発火点となった。〔開戦〕 1914年6月28日オーストリア皇太子夫妻がボスニアで暗殺されたサラエボ事件を契機に,オーストリアは7月23日セルビアに最後通牒(つうちょう)を発し,28日宣戦布告。これに対しロシアは総動員令によって応じ,ドイツは8月1日ロシアに,3日フランスに宣戦,4日英国がドイツに宣戦して,8月末までにイタリアを除く全同盟国・協商国が交戦状態に入った。〔初期の戦況〕 ドイツは最初からシュリーフェンの提案による西部戦線での短期決戦をねらったが,マルヌ会戦で挫折した。以後戦線は膠着(こうちゃく)状態となり,1914年―1915年の間はイープルの戦,ドイツ軍による再度の大攻撃(ベルダンの戦),半年にわたる英・仏軍の大反攻(ソンムの戦)などがあったが,爆撃機・戦車・毒ガスなど新兵器の投入にもかかわらず戦局は変わらなかった。東部戦線では初め優勢だったロシア軍もタンネンベルクの戦で大敗し,守勢に立った。1914年11月トルコがドイツ側に立って参戦,戦火は中近東に拡大した。イタリアは三国同盟の一員だったが,1915年5月ロンドン密約に基づき対独宣戦。海上戦ではドッガーバンクの海戦,ユトランド沖海戦があったが,優勢な英艦隊が封鎖作戦をとったため,ドイツは潜水艦(Uボート)にたよらざるをえなかった。〔中東の情勢〕 トルコの参戦に対し,英国はキプロス島併合,エジプト保護領化を宣言。フランスと共同で行ったガリポリ遠征は失敗したが,スエズ地区ではトルコの攻撃阻止に成功。ヨーロッパ列強は中東の被圧迫諸民族を自己陣営に引き入れようと,戦後の独立・自治を約束したが,その裏面で列強同士が秘密協定を結んで領土分割を図り,問題を紛糾させることになった。大戦後アラブ諸民族独立を約したフサイン=マクマホン書簡と,ユダヤ人国家の建設を認めたバルフォア宣言の矛盾は特に大きな問題を残した(パレスティナ問題)。〔アジアの戦局〕 1914年日本は対独宣戦,チンタオ(青島)およびドイツ領南洋群島を占領したが,真の目的は中国に対する発言権の強化にあり,二十一ヵ条要求,山東省支配権の獲得で東アジア進出の足場を確保した。〔戦局の転機〕 ヨーロッパの反戦・反帝国主義運動は,大戦勃発とともに各国の社会民主主義勢力が政府・戦争支持にまわったことにより無力化し,第二インターナショナルも崩壊。しかし戦争の長期化・総力戦化は民衆の不満を増大させた。1917年ツァーリ専制に反対するロシア革命が成功,新生ソビエト政権は平和と民族自決の原則を掲げ,1918年3月ドイツと単独にブレスト・リトフスク条約を結び,戦列を脱した。他方制海権を失ったドイツは1917年2月から無制限潜水艦作戦をとり,英国は窮地に陥ったが,それは米国の世論を刺激し,同年4月米国は対独宣戦に踏み切った。以後英・仏軍は米国からの兵員・物資援助を受けて反撃に転じ,1918年9月以降ドイツ軍は完全に守勢に立った。ドイツ軍はブレスト・リトフスク条約後も東部戦線で進出を試みたが,各地で激しい抵抗にあった。〔大戦の終結〕 1918年に入ると諸国の反戦運動は表面化し,ドイツ・オーストリアでは兵士・労働者のデモやストライキが続き,米国大統領ウィルソン十四ヵ条平和原則を発表して戦争終結の方向を示した。3〜7月の最後の総反撃に失敗したドイツでは,10月28日キール軍港で水兵の反乱が起こり,これがドイツ革命に発展,皇帝はオランダに亡命,ドイツ共和国が樹立され,11月11日パリ郊外コンピエーニュの森で休戦条約に調印するに至った。〔大戦の結果〕 1919年1月パリ講和会議が開かれ,6月ドイツはベルサイユ条約に調印,以後同盟国と協商国との間でサン・ジェルマン条約ヌイイー条約トリアノン条約セーブル条約が調印された。これによって出現した戦後体制はベルサイユ体制と呼ばれる。ベルサイユ条約は無併合・無賠償・民族自決等を謳ったウィルソンの十四ヵ条平和原則にのっとっていた。しかし戦勝国は戦時中の秘密協定に基づき領土の再分割を図り,植民地は多く委任統治の形で割譲され,被圧迫民族の独立運動・反帝国主義運動を激化させた。またドイツは領土割譲・軍備制限のほか1320億金貨マルクの苛酷な賠償金を課され,経済は極度に混乱した(ドイツ賠償問題)。国際平和の維持を目的として創立された国際連盟も,米・ソが不参加のため英・仏が主導権を握り,実質的には戦勝国の利益を擁護する機関となった。第1次大戦の結果生じた事態としては,さらに次のようなことがあげられる。1.社会主義国ソ連が成立し,従来と全く異なる新しい国際政治の場が開かれた。また資本主義諸国によるソ連封じ込め政策はかえって世界の革命運動を激化させ,コミンテルンの成立をみることになった。2.米国の国際的地位の優位が確立し,特に経済面で資本主義的世界の中心が米国に移ったことは,従来のヨーロッパ中心の国際政治を大きく変えた。3.きびしい制裁を受けたドイツでは,民主主義の理想と目されたワイマール共和国が社会的混乱の中で崩壊,ナチス台頭を誘発した。4.アジア,アフリカをはじめ被圧迫民族の間に民族意識が高まり,組織的な民族解放・独立運動が進展した。〔損害〕 この戦いには同盟国側4ヵ国,協商国側23ヵ国が参戦。戦死者約1000万,戦傷者1000万〜3000万,一般市民の死傷約500万,直接戦費約1800億ドルに達した。
→関連項目アントワープオリンピック(1920年)オーストリア・ハンガリー二重帝国軍部成金パリ平和会議バルカン問題

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世界大百科事典 第2版の解説

だいいちじせかいたいせん【第1次世界大戦 First World War】


【戦争の発生】

戦前の国際秩序]
 第1次大戦は19世紀以来の世界秩序の崩壊を意味する歴史上最初の世界戦争であるから,その背景はかなりさかのぼって考えてみる必要がある。19世紀ヨーロッパの国際秩序を維持する原理はイギリス,フランス,プロイセン,オーストリア,ロシアの国際的勢力均衡システムであり,国際政治はこの五大列強相互のあいだのバランスによって安定を保っていた。その中でもヨーロッパの東西両端に位置を占めるイギリスとロシアの影響力は大きかった。

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世界大百科事典内の第1次世界大戦の言及

【アメリカ合衆国】より

…なお,アメリカで初めて中央銀行制度としての連邦準備制度が発足(1913)したのは,ちょうどこの時期である。 ところで,第1次世界大戦以後1920年代にかけて,アメリカ経済は未曾有の繁栄期を迎えた。とくに20年代には経済全体の活動水準が上昇し,技術革新がよりいっそう進み,物価や賃金が安定していた。…

【戦争】より

…0(12件の戦闘をともなわない占領)から3000万人以上(第2次世界大戦)までさまざまであるが,総体的にみて増加の傾向にある。10年単位でみると,多数の人命が奪われるようになるのは1910年以降,すなわち第1次世界大戦(1140万人)以後のことといえる。その理由は,戦争の件数の増加,イデオロギーの暴力,兵器の破壊力の飛躍的増大,虐殺と皆殺し(ジェノサイド)の傾向を指摘できよう。…

【ロシア革命】より

…20世紀世界史において最も巨大な意義をもった社会変革。マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み,世界史に革新的な作用を及ぼした。 革命は大きく分けて,1905年の革命(第1次革命)と17年の革命から成り,後者はさらに〈二月革命〉と〈十月革命〉に区分される。この〈十月革命〉は,ロシア革命の全過程の中で最も重要な局面を構成し,マルクス主義にもとづく社会主義社会の実現を目ざす政権を,人類史上初めて誕生させたことで知られる。…

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