クリコボの戦い(読み)くりこぼのたたかい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クリコボの戦い」の意味・わかりやすい解説

クリコボの戦い
くりこぼのたたかい

1380年、ロシア軍がキプチャク・ハン国軍を破った戦い。長年の内紛から統一を回復したハン国の実質的な支配者ママイは、ロシア支配を強化するために、1378年に遠征軍を派遣したが、ボージャ川で敗れた。80年にママイは約15万の軍を率いてロシア遠征に上り、あらかじめ使節を出してハン国への税の増額を要求した。モスクワ大公ドミトリーはこれを拒否し、モスクワとコロムナにロシア諸公の軍を集結した。ドミトリーの率いる約15万に上るロシア軍は南下して、ドン川上流のクリコボКуликово/Kulikovoという原野でママイ軍と激戦を展開。ロシア軍は劣勢であったが伏兵救援によってママイ軍は壊滅した(1380年9月8日)。この勝利も「タタールのくびき」を解消しえなかったが、ロシア人に勇気を与え、モスクワ大公の権威を高めた。ドミトリーは、勝利を記念して「ドンスコイ」(ドン川の意)の名を得た。

[伊藤幸男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クリコボの戦い」の意味・わかりやすい解説

クリコボの戦い
クリコボのたたかい
Battle of Kulikovo Pole

1380年9月 15日 (旧暦8日) ,モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイの指揮するロシア諸公軍とタタール軍との会戦。ロシアの諸公国は 13世紀以来キプチャク・ハン国の支配下にあったが,14世紀になるとモスクワ大公国がめざましい発展をとげ,ハン国の支配に反抗しはじめた。そこでハン国のママイ・ハンはみずから大軍を率いてドン河畔に進み,クリコボでモスクワの同盟軍と戦ったが,モスクワ側の巧みな用兵によって敗退した。これはモスクワのタタールに対する最初の勝利であり,100年後の「タタールのくびき」からの解放の第一歩となった。この勝利によって,ドミトリーは「ドンスコイ (ドン川の意) 」と呼ばれるようになった。中世ロシアの有名な軍記物語『ザドンシチナ』はこの戦いを題材にしたものである。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android