改訂新版 世界大百科事典
「ドミトリードンスコイ」の意味・わかりやすい解説
ドミトリー・ドンスコイ
Dmitrii Ivanovich Donskoi
生没年:1350-89
モスクワ大公。8歳でウラジーミル・モスクワ大公となり,1380年,クリコボの戦で初めてキプチャク・ハーン国の大軍を打ち破り,ロシア史上の国民的英雄の一人となった。その戦場がドン川支流の流域であったため,ドンスコイ(〈ドン川の〉の意)とあだ名された。イワン・カリタの孫で,青少年期に貴族出身のロシア府主教アレクセイ(1295ころ-1378)の指導・補佐をうけ,特にロシアの統一とモスクワの府主教座擁護(キエフ府主教座新設に反対)に努めたアレクセイの生涯から大きな影響をうけた。トベーリやスーズダリなど有力諸公国と戦い,ボルガ川やカマ川流域のブルガール族の領地にまで勢力をのばしたが,クリコボの勝利後の82年には,逆襲してきたキプチャク・ハーン国軍にモスクワを荒廃させられ,多数の戦死者を出し,貢税の上納を再開せねばならなかった。遺書では,ハーン国の特許状なしに長男ワシーリー(1世)を大公に定め,〈わが父祖の地〉としてモスクワ公国を継承させた。
執筆者:田中 陽児
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ドミトリー・ドンスコイ
Dmitrii Donskoi
[生]1350.10.19. モスクワ
[没]1389.5.26. モスクワ
ロシアのモスクワ大公 (在位 1359~89) 。ディミトリー・ドンスコイとも表記される。イワン2世 (柔和公)の子。即位当初はモスクワ府主教アレクセイの指導のもとに統治。モスクワ大公国の順調な経済発展,ロシア教会との密接な関係を背景に,北東ロシアの長上権であるウラジーミル大公位をめぐる争いで他の諸公国を圧倒。 1367年にはモスクワの城塞 (→クレムリン ) を石造にし,リトアニア (リトワ) 大公オリゲルドの2度にわたるモスクワ攻撃を撃退。また 78年にはモスクワ大公として初めてキプチャク・ハン軍に戦いを挑み,80年にはドン川上流域クリコボの野にハン国の事実上の支配者であったママイ・ハンの大軍を激戦の末破った (→クリコボの戦い ) 。ドンスコイという名称はこの戦いにおける勝利に由来する。
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ドミトリー・ドンスコイ
どみとりーどんすこい
Дмитрий Донской/Dmitriy Donskoy
(1350―1389)
ロシアのモスクワ大公(在位1359~89)。イワン2世の子。幼少のころは府主教アレクセイが摂政(せっしょう)を行った。ドミトリーは、モスクワ大公国の強化に努め、トベーリやリャザニを抑えてモスクワに大公位を確保する一方、リトアニアの東方進出を阻んだ。だがもっとも重要なのは、1380年ドン川河畔のクリコボにおいて、キプチャク・ハン・ママイの率いるタタールの大軍を破ったことである。この戦いは、いわゆる「タタールの軛(くびき)」に終止符を打つものではなかったが、ロシア人がキプチャク・ハンに対し初めて公然と反抗し、勝利を得た重要な戦いとなった。これ以後、彼は「ドンスコイ(ドン川の)」とよばれるようになった。『ザドンシチナ』はこのときの戦いを題材にした物語である。
[栗生沢猛夫]
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ドミトリー・ドンスコイ
Dmitrii Donskoi
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のドミトリードンスコイの言及
【クリコボの戦】より
…1380年9月8日,モスクワ大公国のドミトリー大公(イワン・カリタの孫)の率いるロシア諸公の連合軍が,キプチャク・ハーン国のママイ・ハーンの軍勢をドン川支流域のクリコボKulikovoの原野で迎え撃った会戦。約230年の〈[タタールのくびき]〉のほぼ中間期におこった初の武力対決。正午過ぎから3時ごろまでの短時間に,ロシア軍10万とハーン軍13万~15万が6~7km四方の原野で激突し,ロシアの大勝利に終わったが,損害も大きく,兵の半ばを失って戦場での葬儀に8日かかったという。…
【タタールのくびき】より
… 修道院数が増大し,ロシア府主教をはじめとする正教聖職者の指導性も向上して,ロシアの国土と歴史に対する有識者の自覚もたかまった。しかし,現実にタタールのくびきからの解放が人びとの確信となりだすのは,1380年の[クリコボの戦]におけるモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイを中心としたロシア諸公連合軍の勝利からである。わずか2年後に,今度はモスクワ自体がハーン軍に蹂躙(じゆうりん)され,1万数千人の戦死者を出すが,大公ドミトリーはそれでも遺書の中で自分の長男を大公位の後継者に指定して,ハーンの意向を無視した。…
【モスクワ】より
… ダニイルの子の[イワン・カリタ]はキプチャク・ハーン国の宮廷にとり入ってその援助を受けて近隣のロシア諸公国の土地を手中に収める一方で,ウラジーミルから府主教を迎えたり,クレムリン内にウスペンスキー聖堂を建立したりして,モスクワを全ロシアの宗教上の中心たらしめようと努めた。14世紀後半の[ドミトリー・ドンスコイ]大公の治世にはクレムリンの周囲に木の柵の代りに石の城壁が築かれ,城外に出城の役割を兼ねてアンドロニコフ,シーモノフなどの修道院がつくられた。それでも1382年にはキプチャク・ハーン国のトフタミシ・ハーンによって町が占領され,焼き払われた。…
※「ドミトリードンスコイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」