コソボ紛争(読み)こそぼふんそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コソボ紛争」の意味・わかりやすい解説

コソボ紛争
こそぼふんそう

ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置するコソボにおける紛争。コソボは、長らくセルビア共和国内のコソボ自治州となっており、コソボの独立を目ざすアルバニア系住民と、それを認めないセルビア当局の争いが続いてきた。とくに1980~1990年代のコソボを巡る紛争は、旧ユーゴスラビア連邦解体のきっかけとなった。

 コソボでは1968年と1981年に自治権拡大を求めるアルバニア人暴動が起こった。1989年にはセルビア当局による警察支配がしかれる一方、アルバニア人側は独立宣言で対抗したが、ボスニア・ヘルツェゴビナで戦闘が続く間は膠着(こうちゃく)状態であった。しかし、1998年初めに武力衝突が激化し、2000人以上が死亡、30万~40万人の難民・避難民が発生し、国際問題となった。1999年3月には北大西洋条約機構NATO(ナトー))がユーゴ空爆など軍事介入に踏み切り、一時は百数十万人の難民が周辺諸国に流出した。空爆終了後、国際連合安全保障理事会決議(国連安保理決議)が採択され、以降、コソボは国連の暫定統治機構(UNMIK)による暫定統治下におかれた。

[千田 善 2025年4月15日]

歴史的背景

セルビア側は、13~14世紀に中世セルビア王国の中心地であったコソボを、彼らの民族的聖地と考える。現在も由緒あるセルビア正教の修道院がある。しかし、人口の圧倒的多数はアルバニア系で、セルビア系は少数派であり、ほかにトルコ人、ロマなどが住む。この人口比でも論争があり、アルバニア系は国勢調査をボイコットしつつ、人口の90%以上をアルバニア系が占めると主張する一方、セルビア当局はアルバニア系は75%で、セルビア系は19%を占めるとしていた(1991年の公式統計)。

 コソボ紛争はアルバニア人の民族意識形成の歴史でもある。第二次世界大戦後の1945年「コソボ・メトヒア自治区」(メトヒアは修道院領地の意で、セルビア寄りのニュアンスがある)が発足。1963年には自治州に昇格したが、治安機関の責任者であった旧ユーゴ連邦副大統領ランコビッチが1966年に失脚するまでセルビア人優位の警察支配が続いた。1968年にセルビア色の強い「メトヒア」の名を外し「コソボ自治州」に改称するが、その際、共和国への昇格を要求するアルバニア人によるデモが暴動化した。共和国昇格が見送られる一方で、プリシュティナ大学創設による高等教育の普及、アルバニア本国で印刷された教科書の使用など、民族的覚醒(かくせい)と一体になったアルバニア人の民族主義が、ゆるやかな連邦制度を採用した旧ユーゴ連邦大統領チトーの「74年憲法」下で醸成されていった。チトー死去の翌年である1981年、ふたたび共和国昇格を要求するデモが大規模な暴動になったが、旧ユーゴ連邦政府の治安部隊などにより鎮圧された。その後もアルバニア人とセルビア人の対立は、コソボ自治州内少数派のセルビア人への嫌がらせと、その報復など陰険な形で続いた。こうした状況で強まったセルビア人の民族的な不満を利用して台頭したセルビア人ミロシェビッチは、1990年秋に旧称の「コソボ・メトヒア」を復活させたのをはじめ、アルバニア人の自治権擁護・拡大運動に強硬姿勢で臨んだ。これが結果的に、コソボ紛争の激化を招く直接のきっかけになった。

[千田 善 2025年4月15日]

ミロシェビッチ政権下の民族対立

チトーの74年憲法体制下の旧ユーゴ連邦では、連邦機関へ共和国・自治州ともに同数の直接代表を選出し、自治州政府にも警察権、裁判権を含む大きな自治権が保証されていた。そのため、セルビア共和国とコソボ自治州には平等の権限が与えられていた。しかし、1986年にセルビア共和国のセルビア共産主義者同盟幹部会議長に就任し、セルビアの実権を握ったミロシェビッチは、1989年春、コソボに軍部隊を投入し、厳戒下でセルビア共和国憲法を修正し、自治州の権限を共和国に集中させた。これに前後してミロシェビッチはコソボ自治州政府とコソボ共産主義者同盟のアルバニア人幹部を「分離主義者」として更迭し、抗議運動を武力弾圧、1990年7月には自治州政府と議会を実力で解散させ、コソボの自治権を事実上剥奪(はくだつ)した。これに対しアルバニア人側はコソボ民主同盟(DLK)を結成、同年9月に秘密集会で「コソボ共和国樹立を宣言し、1992年には穏健派のルゴバIbrahim Rugova(1944―2006)を大統領に選出した。西ヨーロッパ在住のアルバニア系労働者からの半強制的拠出を含めた独自の献金・税制度、寺子屋式の学校や民家のガレージを改造した病院など自前の社会組織がつくられ、セルビア側の警察支配との二重権力状態となった。

 1987年以降、ミロシェビッチの強権的なコソボ政策への反発から、旧ユーゴ各地で民族主義が強まり、独立運動に発展した。1991年、スロベニアクロアチアの独立宣言で連邦は分裂・解体し、武力紛争に突入した。戦火は1992年春にボスニアに飛び火し、凄惨(せいさん)な戦争が1995年秋まで続いた。しかしコソボでは、ボスニアの停戦後もコソボの状況が変わらないことにいらだつアルバニア人の間で、穏健派指導部の非暴力路線への不満が表面化した。1997年には武装闘争を掲げるアルバニア系過激派のコソボ解放軍(KLA)が公然と活動を開始し、アメリカがテロ組織指定を解除した1998年以降、セルビア治安部隊と衝突を繰り返しながら勢力を伸ばした。

[千田 善 2025年4月15日]

NATO軍のユーゴ空爆

1998年秋、紛争が激化し、多数の難民・避難民が発生したため、連絡調整グループの米ロ英仏独伊6か国による調停工作が始まり、1999年2~3月には過激派・穏健派合同のアルバニア人側代表団と、ユーゴ・セルビア当局側の交渉がフランスで行われた。コソボの自治権の大幅な拡大、NATOの平和維持軍駐留などの和平案を、アルバニア人側は受け入れた。しかし、セルビア側はNATO軍の自由通行権などが事実上のセルビア占領にあたるとして、これを拒否した。このため、NATOは1999年3月24日からセルビアとモンテネグロ全土に航空爆撃を加えた。NATO史上初の主権国家に対する武力行使となったが、これをきっかけにセルビア当局側が大規模なアルバニア系住民追放を組織的に行い、難民・避難民が百数十万人に上るなど状況は混迷した。NATO側は武力行使を冷戦後の「新戦略政策」の発動としての「人道的介入」であると説明したが、国連安保理の承認を得ていないことにロシアや中国などが反発し、国際社会の足並みも乱れた。

 とくに、セルビア共和国の首都ベオグラードで1999年5月7日に起きた米軍のミサイルによる「中国大使館誤爆事件」に対しては中国国内で激しい反米・反NATOデモが行われるなど、米中関係に深刻な影響を及ぼした。また空爆停止直後、ロシア軍がNATOとの合意なしにコソボに派兵し、指揮系統をめぐって西側と対立するなど、コソボ問題をきっかけにした諸大国の駆け引きも活発に行われた。

[千田 善 2025年4月15日]

空爆の停止と残された課題

結局、1999年6月にミロシェビッチ政権がロシアとフィンランドの仲介を受け入れ、コソボから軍・警察治安部隊を撤退させたことで、NATOは空爆を78日間で中止した。コソボにはNATOを中心とした国際治安維持部隊(KFOR)が進駐し、これに続いて国連が「国連コソボ暫定行政ミッション」(UNMIK)を発足させた。しかし、住民同士の略奪や放火、殺人が頻発するなど民族間の対立・憎悪はむしろ拡大した。アルバニア系難民・避難民の大半は帰還したが、非アルバニア系のセルビア人やロマなど約20万人がコソボを追われ、新たに難民化した。コソボの軍事施設だけでなく、ユーゴスラビア全土の工場や橋、発電所その他の社会基盤施設が破壊され、復興には数十年、その費用も数十兆円かかると推定されている。空爆停止後も、経済の貧困が根本問題であるバルカン半島地域が安定したとはいえない。

 コソボ紛争は、NATOが国連を無視する形で武力行使に踏み切ったことで、独立国家の内部の人権問題に対する外部からの働きかけ(人道的介入)の是非や、それがどの程度まで許されるかなど、その後の国際社会全体の秩序のあり方について大きな論議をよぶきっかけとなった。

 なお、ミロシェビッチ政権が2000年10月に崩壊した後、コソボでは2001年に自治州議会選挙が行われ、コソボ暫定自治政府が立ち上げられたが、1999年以来、コソボはUNMIKの暫定統治下にある。2004年3月にはアルバニア系勢力による大規模な暴動が発生、セルビア人施設などへの破壊活動が行われ、多くの死傷者を出し、非アルバニア系住民が難民・避難民となるなど、衝突は続いている。2005年、国連安保理が関係当事者によるコソボの地位交渉の開始を決定したが、セルビア側は、コソボに広範な自治権は付与するが独立は認めないとした。

[千田 善 2025年4月15日]

独立宣言

2008年2月、コソボ議会はコソボ共和国の独立を宣言した。アメリカやヨーロッパ連合(EU)、日本を含む100か国以上が国家として承認したが、セルビアや、セルビアを支援するロシアなどは承認しておらず、国連加盟についても反対しており、2025年4月時点でも国連加盟は果たしていない。国際法上、依然として国連の暫定統治下にあり、NATOやEUの部隊が治安維持にあたっている。

[千田 善 2025年4月15日]

『ドゥブラヴカ・ウグレシィチ著、岩崎稔訳『バルカン・ブルース』(1997・未来社)』『柴宜弘編『バルカン史』(1998・山川出版社)』『千田善著『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか――悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』(1999・勁草書房)』『梅本浩志著『ユーゴ動乱1999――バルカンの地鳴り』(1999・社会評論社)』『町田幸彦著『コソボ紛争――冷戦後の国際秩序の危機』(1999・岩波ブックレット)』『岩田昌征著『ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像』(1999・御茶の水書房)』『子供地球基金中部事務局編『わたしの夢、わたしの人びとの苦しみ――難民キャンプのこどもたち』(1999・ポプラ社)』『西村一郎著『JEN 旧ユーゴと歩んだ2000日――日本緊急救援NGOグループ活動報告』(2000・佼成出版社)』『中津孝司著『南東ヨーロッパ社会の経済再建――バルカン紛争を超えて』(2000・日本経済評論社)』『長倉洋海著『コソボの少年』(2000・偕成社)』『ペーター・ハントケ著、元吉瑞枝訳『空爆下のユーゴスラビアで――涙の下から問いかける』(2001・同学社)』『百瀬宏・今井淳子・柴理子・高橋和著『国際ベーシックシリーズ5 東欧』(2001・自由国民社)』『ノーム・チョムスキー著、益岡賢他訳『アメリカの「人道的」軍事主義――コソボの教訓』(2002・現代企画室)』『大石芳野著『コソボ破壊の果てに 大石芳野写真集』(2002・講談社)』『千田善著『ユーゴ紛争――多民族・モザイク国家の悲劇』(講談社現代新書)』『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コソボ紛争」の意味・わかりやすい解説

コソボ紛争
コソボふんそう
Kosovo conflict

セルビアのコソボ自治州(→コソボ)におけるセルビア人アルバニア人の民族紛争。人口約 200万のうち約 90%をアルバニア人が占めたコソボ自治州では,ユーゴスラビア時代の 1974年に大幅な自治が認められたものの,国内の最貧地域であり,アルバニア人は経済的後進性への不満をいだいていた。歴史的な反セルビア感情も加わり,1981年にはアルバニア人の暴動が発生,セルビア人に多数の死傷者が出た。この事件以後,アルバニア人とセルビア人の対立が深まった。紛争の直接的な契機は 1989年にセルビア共和国憲法が修正されてコソボの自治権が剥奪されたことだった。自治権の回復を求めるアルバニア人は 1991年にコソボ共和国の樹立を宣言,1992年にはコソボ民主同盟 KDLのイブラヒム・ルゴバ議長を大統領に選出した。ルゴバはセルビアのスロボダン・ミロシェビッチ大統領との交渉で自治権を回復しようとしたが果たせなかった。こうした情勢に不満をもつ青年層は武力による独立を掲げるコソボ解放軍 KLAを支持。KLAの活動が激化したため,1998年2~3月セルビア治安部隊は掃討作戦を展開。以後両者の戦闘は長期化した。国際社会はコソボの自治の回復を支持し,仲介をはかったが,行きづまった。1999年3月北大西洋条約機構 NATO軍がアルバニア人の人権擁護を理由にユーゴスラビアに空爆を行なったが,この空爆は国連安全保障理事会の決議を経ておらず,国際世論の批判を受けた。空爆後はユーゴスラビア軍のコソボ制圧が激化し,80万をこえるアルバニア人難民が近隣諸国に流出した。6月ミロシェビッチ政権はアメリカ合衆国,ロシアおよびヨーロッパ連合 EUの提示した和平案を受け入れた。これにより空爆は中止され,国連コソボ暫定統治機構 UNMIKの創設,コソボ平和維持部隊 KFORの派遣が行なわれた。情勢の安定に伴い多くのアルバニア系住民が帰還したが,今度はアルバニア人によるセルビア人やロマへの暴力が頻発し,20万人以上のセルビア人難民が発生した。コソボは2008年独立を宣言した。(→ユーゴスラビア史

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