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ユーゴスラビア史 ユーゴスラビアし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ユーゴスラビア史
ユーゴスラビアし

古代においてはイリュリアと呼ばれ,イリュリア人が居住。前4世紀マケドニア,前2世紀ローマ,4世紀末ビザンチン帝国の支配下に入った。南スラブ人はようやく 6~7世紀に出現。北部に定住したスロベニア人は 20世紀までほぼ一貫してドイツ系国家の支配を受け,西方教会に帰属した。スラブ人独自の国家組織が形成されたのは,北部ではクロアチア人の定住したダルマチア,南部ではセルビア人の定住したラシュカゼータ両地方であった。クロアチア人は 9世紀頃公国を建設し,10世紀にはトミスラフのもとで王国となったが,内陸からハンガリー,海からベネチアの侵攻を受けて 11世紀末解体,主要部分は以後 20世紀にいたるまでハンガリーの支配を受けた。セルビア人も 10世紀,ブルガリアを破って公国を建て,ミハイロのもとでラシュカとゼータが統合されて,1077年王号を許された。
1168年ステファン・ネマーニヤによりネマーニヤ朝セルビア王国が成立。ステファン・ドゥシャン(在位 1331~55)の治下ブルガリア,ボスニア,マケドニア,アルバニア,北ギリシア,クロアチアの一部が統一され,東方教会の一部としてのセルビア教会のもとに独自のセルビア文化が開花した。しかしその死後セルビアの勢いはふるわず,代わってコトロマニア朝のボスニアが台頭したが,コソボの戦い(1389)後はオスマン帝国が進出し,15世紀中頃両王国とも滅んだ。こうしたなかで険しい山地に囲まれたモンテネグロのみは一貫して実質的独立を維持し,1516年主教君主制(→ブラディカ)を採用,1696年以後ニェゴシュ朝のもとでブラディカ職が世襲化されて,南スラブ人の民族解放運動,近代化運動の一拠点となった。オスマン帝国支配時代末期に圧政を逃れて,南スラブ人口が山岳地から平地のベオグラード,ザグレブを中心に移動。
19世紀にいたり,まずセルビアがオスマン帝国に対する反乱を敢行し,1815年ミロシュ・オブレノビッチ1世のもとに自治を獲得。1878年のベルリン会議で完全独立,1882年王国を宣言。他方ボスニア,ヘルツェゴビナも 1878年オスマン帝国の支配を離れたが,1908年オーストリア=ハンガリー帝国に併合。第1次世界大戦において中央同盟が敗北するとともにクロアチア,スロベニア,ボスニア・ヘルツェゴビナがセルビア,モンテネグロと合体,カラジョルジェビッチ家のもとに南スラブの統一国家セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国を形成。1929年ユーゴスラビア王国と改称した。
1941年ドイツ,イタリアによって占領され,クロアチアがドイツの傀儡国家として分離独立したが,チトー率いる共産党パルチザンによって解放,再統一された。1945年王制廃止,ユーゴスラビア連邦人民共和国を宣言。1948年ソビエト連邦と対立し,コミンフォルムを除名。以後対外的には非同盟主義,対内的には自主管理社会主義をとり,1963年には国名をユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改めた。1980年5月チトー死去に伴い,国家元首,党首を輪番制とした。
1980年代末より東ヨーロッパ諸国で民主化が進むなか,1991年にスロベニアクロアチアマケドニアが,1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが相次いで独立を宣言。1992年4月セルビアとモンテネグロは新たにユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)を形成した。旧ユーゴスラビアの解体に伴って,冷戦後最大の民族紛争が生じた。一連のユーゴスラビア紛争は五つに区分できる。(1) 1991年6月のスロベニアの独立に伴う連邦軍とスロベニア共和国軍との「10日間戦争」。連邦軍が自滅してヨーロッパ共同体 EC(1993年11月からヨーロッパ連合 EU)の仲介により休戦協定が結ばれた。(2) 1991年6月のクロアチア独立後,9月から本格化した国内のセルビア人勢力とクロアチア共和国軍との内戦(→クロアチア紛争)。セルビア人勢力の保護を掲げて連邦軍が介入。国際連合の仲介により 11月末に停戦合意が成立して国連保護軍 UNPROFORが停戦の監視にあたったが,1995年8月にクロアチア軍がセルビア人勢力を軍事的に排除するまで戦争状態は続いた。1998年1月,最後の国連暫定統治地域である東スラボニアも平和裏にクロアチアに統合された。(3) 独立の是非をめぐり 1992年3月に始まったムスリム,セルビア人,クロアチア人の 3勢力によるボスニア内戦(→ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)。 EC(EU)と国連の仲介にもかかわらず,3年半の長きに及び,20万の死者と 250万の難民・避難民を出す凄惨な戦いとなった。政治的解決は成功せず,1995年8~9月に北大西洋条約機構 NATO軍によるセルビア人勢力への空爆が実施された。同年11月にアメリカ合衆国の主導でデートン和平合意(ボスニア和平協定)が成立して内戦は終結した。二つの政体(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人共和国)からなる一つのボスニアが目指された。(4) セルビア共和国コソボ自治州の約 90%を占めるアルバニア人をめぐる紛争(→コソボ紛争)。1998年2月末,セルビア治安部隊がコソボ解放軍 KLAの掃討作戦を開始し,以後両者の激しい戦闘が続いた。1999年3月 NATO軍が人道的介入を理由として,ユーゴスラビア空爆を実施。78日間続いた。6月に停戦合意が成立した。1999年の紛争終結後,コソボ自治州は国連の暫定統治下に置かれ,セルビアとの間で最終地位をめぐる交渉が続けられたが 2007年12月に決裂。2008年2月コソボは独立を宣言したが,セルビアは承認していない。(5) ユーゴスラビア紛争の最終局面であるマケドニア紛争。人口の約 30%を占めるアルバニア人の武装勢力が,2001年2月からマケドニア人との憲法上の平等やアルバニア語の公用語認定を要求して政府軍と衝突した。マケドニア人とアルバニア人の主要政党による 2ヵ月以上に及ぶ協議の結果,8月にアルバニア人の権利拡大を認める合意が成立。8月末からは NATO軍が展開し,武装勢力の解体や武器回収にあたった。11月に憲法改正案が採択され,アルバニア人の権利拡大が制度化された。これら一連の紛争を通じて,スロベニアを除く旧ユーゴスラビア諸国はヨーロッパの統合過程から大きく取り残された。
セルビアとモンテネグロはセルビア語とセルビア正教を共通とする親密な関係にあり,1992年ユーゴスラビア連邦共和国を形成した。この連邦国家は人口約 1000万のセルビアと約 65万のモンテネグロからなる非対称的な国家であり,セルビアのスロボダン・ミロシェビッチ大統領(1997年からユーゴスラビア連邦大統領)が実権を保持した。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後,経済問題を背景にモンテネグロで独立傾向が生じ,コソボ紛争や NATOによる空爆と連動して強まった。2000年10月の「民衆革命」によってミロシェビッチ政権が崩壊すると,モンテネグロの独立への動きは無視できないものとなった。 2002年3月に EUの仲介でセルビアとモンテネグロとの間にゆるやかな連合国家セルビア・モンテネグロをつくる合意が成立,2003年2月4日に連邦議会がこれを採択し,セルビア・モンテネグロへの移行が完了した。2006年5月モンテネグロは国民投票を実施し,6月連邦から独立した。

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