ユーゴ紛争(読み)ゆーごふんそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ユーゴ紛争」の意味・わかりやすい解説

ユーゴ紛争
ゆーごふんそう

1991年6月のスロベニアクロアチア両共和国の独立宣言をきっかけに始まったユーゴスラビア内戦のこと。この内戦民族紛争の強い様相を現しながら泥沼化した。紛争の過程でボスニア・ヘルツェゴビナマケドニア(現、北マケドニア共和国)も独立を宣言。1992年4月にはセルビアモンテネグロユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ、2003年から「セルビア・モンテネグロ」となり、2006年にそれぞれ独立国家となる)の創設を宣言して、6共和国と2自治州で構成されていた従来のユーゴスラビア連邦は完全に崩壊した。

[柴 宜弘]

ユーゴスラビアの解体

1992年1月15日、ヨーロッパ共同体(EC)がスロベニアとクロアチア両共和国の独立を承認した。この結果、70年以上に及ぶ多民族国家ユーゴスラビアは事実上解体した。1991年12月のソ連、1993年1月のチェコスロバキアと並んで、連邦制を敷く社会主義国が相次いで解体したことになる。これら一連の動きは、連邦中央に抑圧されていた諸民族が民族自決を掲げて、連邦中央を牛耳っていた多数民族に反旗を翻した結果だと考えられがちである。しかし、この図式はユーゴには当てはまらない。ユーゴの場合、1974年の憲法により国家連合に近い連邦制が確立された。このときに、指導者チトーおよび共産主義者同盟、連邦人民軍をユーゴ統合の絆(きずな)として、6共和国と2自治州が等しく「経済主権」をもつことになったのをはじめとして、すべての共和国と自治州の平等が制度化されていたのである。反面、この「74年憲法」は、最大多数のセルビアの主張を抑えることによって、各共和国・自治州間のバランスを図ったということができる。

 しかし、1980年にチトーが死去し、1970年代末から1980年代を通じて経済が悪化の一途をたどるなかで、連邦制の危機が進行した。さらに、1981年には、セルビア共和国に属する、アルバニア人が85%以上を占めるコソボ自治州で経済的不満を理由として暴動が生じた際、分権的な「74年憲法体制」のもとでコソボが独立した存在であったためセルビアが直接この問題に関与することができず、また、連邦も解決策を講じることができなかったため、最大多数を占めるセルビア人の民族的な不満が強まった。こうしたことを背景として、1987年には憲法修正に積極的なミロシェビッチがセルビア共和国幹部会議長に選出された。この結果、コソボ問題と経済危機の解決に向けて「74年憲法」修正の動きが加速されたのである。

 1988年11月、共和国や自治州の権限の一部を連邦や共和国に移行させる内容の憲法修正案が可決された。これに対し、経済的に豊かな先進共和国のスロベニアが「経済主権」の保持にこだわり、強く反発して、両共和国の対立は一枚岩であるべき共産主義者同盟内にまで持ち込まれ、1990年1月に共産主義者同盟は分裂した。この後、4~12月にかけて6共和国で自由選挙が実施され、それぞれ民族主義的傾向の強い政権が成立した。連邦の維持か国家連合か解体かの問題が現実となり、6共和国間の話し合いが続けられるが、合意に達せず解体の道を進んだのである。経済問題に民族自決が絡んでの独立劇であったといえる。

[柴 宜弘]

民族自決とセルビア人問題

1991年6月、スロベニアとクロアチアで民族自決に基づく独立宣言が出された。クロアチアでは「少数者」となることを嫌うセルビア人(総人口の12%、約60万人)とクロアチア共和国軍との戦闘が激しさを増し、連邦人民軍がセルビア人の保護を掲げて介入するに及んで1991年9月に内戦が本格化した。一方、スロベニア人が90%以上を占め、セルビア人がほとんどいないスロベニアではこうした問題は生じなかった。クロアチア内戦は3か月の激戦後、ECにかわる国連の仲介により停戦合意に達した。1992年2月末、国連保護軍(UNPROFOR)が派遣され戦闘は回避された。しかし、「セルビア人問題」が解決されたわけではなく、セルビア人も民族自決に基づく「共和国」を形成して、クロアチアの3分の1の領域を実効支配した。トゥジマン政権は国連保護軍に守られた形のセルビア人勢力の対応に手を焼いた。1995年5月と8月、アメリカの支持を取りつけ、ついに軍事的手段を講じるに至り、「クライナ・セルビア人共和国」を攻撃して、いっきに制圧した。セルビア人地域として唯一残っていた東スラボニアも、その後国連の暫定統治を経て、1998年1月にクロアチアに統合された。

 なお、クロアチア内戦の過程でユーゴ解体は不可避との判断が一般化し、1991年10月にはそれまでユーゴの一体性の保持を主張していたボスニア・ヘルツェゴビナで、ムスリム(イスラム教徒)、セルビア人、クロアチア人3勢力の見解の対立が明白になり、11月にはマケドニアで独立宣言が採択された。ボスニアでは、ムスリムにつぐセルビア人(総人口の32%)がここでも「少数者」となることを嫌い、独立に反対したためムスリムとの対立が生じた。

[柴 宜弘]

ボスニアの内戦

1992年4月にECがボスニア・ヘルツェゴビナの独立を承認。これを契機として、ムスリム・クロアチア人勢力とセルビア人勢力との戦闘が激しさを増した。連邦人民軍がクロアチア内戦同様に介入し、流血の内戦に突入した。ボスニア内戦は3勢力の領土拡大のための戦闘であり、3者は他民族を排除して民族の住み分けを実現するための手段を講じた。これが「民族浄化」と称される政策であり、住民の大規模な流動化が引き起こされた結果、セルビア人とクロアチア人勢力が実効支配する領域を大きく拡大し、戦闘力に劣るムスリム人勢力は支配地域を縮小した。ボスニアでは、それまでムスリム、セルビア人、クロアチア人が、住み分けできないほど混住しており、共生を余儀なくされていたため、3者はことばも顔つきも変わらない。しかし、戦闘により近親憎悪の感情が煽(あお)られ、死者・行方不明者20万人、被災者・難民270万人の犠牲を払い、3年半にわたる三つどもえの戦闘が継続した。

 内戦の過程で、3勢力の共存関係はいっきに切り崩されていった。この原因は、3勢力の民族主義的な政治家の扇動やユーゴ国内外の極端な民族主義グループの影響に加え、第二次世界大戦期にナチス・ドイツの傀儡(かいらい)国家だった「クロアチア独立国」におけるセルビア人殺害などの「兄弟殺し」の忌まわしい記憶、近親憎悪の感情、全人民防衛体制により武器が各地に置かれていて入手が容易だったことなどの点に求められる。

 国際社会は冷戦後最大の民族紛争に対して和平実現のために積極的に取り組んだ。しかし、話し合いによる平和解決か、武力による解決を目ざすのかで方針が揺れた。1992年から1993年にかけて、国連とヨーロッパ連合(EU)が三つの和平案を提示したが、いずれも3勢力すべての合意を得ることができなかった。1994年春から国連とEUにかわり、アメリカを中心とする北大西洋条約機構(NATO)の積極的関与が顕著になった。米ロ英独仏の5か国は1994年5月、アメリカの主導で形成されていたムスリム勢力とクロアチア人勢力からなるボスニア連邦に51%、セルビア人勢力に49%の領土分配を内容とする最終和平案を提示、しかし、この最終和平案もセルビア人勢力の反対にあう。

 1995年8月には、米軍を中心とするNATO軍がセルビア人勢力に本格的な空爆を開始した。セルビア人勢力は大きな打撃を受けたが、一方でアメリカはセルビア人勢力を交渉のテーブルにつかせるため「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」という名称を初めて公認した。この結果、セルビア人勢力はアメリカ主導の和平交渉に臨む姿勢をみせた。11月、アメリカ・オハイオ州のデイトンで、ボスニア3勢力の代表ではなく、ユーゴ紛争3当事国による協議が行われ、それぞれが妥協を迫られるなかで和平合意が成立した。

 デイトン合意は「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」という二つの政体を認めながら、「単一国家」を築こうとするものである。この矛盾した内容の合意に基づいて、ボスニア和平プロセスは軍事面と民政面とで進められた。難民の帰還や経済復興など抱える問題は多く、NATOを中心とする多国籍軍(IFOR、1996年末からは和平安定化軍=SFOR)が展開され、1996年9月には統一選挙が実施された。選挙結果は、事前の予想どおり、1990年の自由選挙で勝利を収め、内戦を主導してきた3勢力の民族政党が圧勝した。選挙後、イゼトベゴビッチを幹部会議長(元首)とする中央政府が形成された(イゼトベゴビッチは2000年10月辞任)。その後、通貨の統一や自由なヒト・モノの往来が進み、1998年からは4年に一度総選挙が実施された。国際社会からは選挙のたびごとに、民族の枠を超えた政党、たとえば社会民主党などが勢力を伸ばし、二つの政体の壁を崩して一つの国家に近づくことが期待されたが、結果は、民族政党の勝利が続いた。2010年10月の総選挙でも大勢は変わらなかったが、「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」では社会民主党が躍進して、第一党になった。しかし「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」との壁は高いままである。

[柴 宜弘]

『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』

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