シュトラスブルクの盟約(読み)シュトラスブルクのめいやく(英語表記)Serments de Strasbourg

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

シュトラスブルクの盟約
シュトラスブルクのめいやく
Serments de Strasbourg

ストラスブールの誓約書とも呼ばれる。 842年の東フランク王と西フランク王との盟約。フランク王ルートウィヒ1世 (敬虔王) の死後,3人の子の間に勢力争いが起り,次子の初代東フランク王ルートウィヒ2世 (ドイツ王) と末子の初代西フランク王カルル2世 (禿頭王) は協力して,長兄の西ローマ皇帝ロタール1世に対抗し,841年フォントノアの戦いで勝利を得た。両者は翌年,シュトラスブルクに会し同盟関係を再確認した。この基盤のうえに 843年のベルダン条約が生れた。ドイツ語とフランス語で書かれた最古の文書で,東西フランクの王が臣下に盟約を示し協力を求めたという点で封建的主従関係の成立を示すものとして重要な史料である。

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世界大百科事典 第2版の解説

シュトラスブルクのめいやく【シュトラスブルクの盟約】

840年のルートウィヒ1世の死後,その長子のロタール1世は皇帝位と同時にフランク王国全体に対する最高権を主張して,弟のルートウィヒ2世にはバイエルン1国に甘んずることを,また末弟のカール2世には相続領をアキテーヌ1国に縮小することを強要した。そのうえ彼は,恩貸地の大盤振舞によって,弟たちの家臣の多くを,自分の家臣に加えることに成功した。このような兄の侵略政策に対抗して弟2人は結束し,841年6月25日のフォントノア・アン・ピュイゼFontenoy‐en‐Puisayeでの勝利の後,842年2月14日シュトラスブルクで防衛条約を結ぶ。

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