改訂新版 世界大百科事典 「ロタール1世」の意味・わかりやすい解説
ロタール[1世]
Lothar Ⅰ
生没年:795ころ-855
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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795~855(在位840~855)
西ローマ皇帝。ルイ1世(敬虔王)の長子。817年より王国を父と共同統治,のち弟たちと父に反乱(830~833年),父の死に際し皇帝を承認された(840年)。翌年弟ルートヴィヒ(2世,ドイツ人王),シャルル(2世,禿頭王)の同盟軍に敗れたが,ヴェルダン条約で中部フランクを皇帝位とともに獲得した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…しかしこのような理想像は,一般には理解されず,さまざまな現実との摩擦を生じた。例えばカール大帝の分国令Divisio Regnorum(806)は,男子すべての相続を認め,帝権への言及は故意に避けたが,ルートウィヒ1世の帝国遺贈令Ordinatio Imperii(817)は,帝権に重点をおき,同時に長男ロタール1世を皇帝および共同統治者としたため,各方面の不満がついには反乱にまで発展した。加えて823年に末子カール(のちの2世)が後妻との間に生まれ,817年には予想されなかった遺贈分を準備せねばならなくなったルートウィヒ1世は,しだいに他の3子(ロタール1世,アキタニア王ピピン,ルートウィヒ2世)との間に争いを生じ,父子骨肉の戦争から一時廃位にまで追いこまれた(830‐833)。…
…840年のルートウィヒ1世の死後,その長子のロタール1世は皇帝位と同時にフランク王国全体に対する最高権を主張して,弟のルートウィヒ2世にはバイエルン1国に甘んずることを,また末弟のカール2世には相続領をアキテーヌ1国に縮小することを強要した。そのうえ彼は,恩貸地の大盤振舞によって,弟たちの家臣の多くを,自分の家臣に加えることに成功した。…
…生地がポアティエ付近であったため,アクイタニア王たるべく,同地方の慣習で育てられた。彼は帝権を唯一の教会を援助すべき唯一の権力と考え,817年の帝国遺贈令において長男ロタール1世を皇帝に任じ,他の兄弟たちに帝権に従属すべきことを命じた。この考えは,ゲルマンの相続慣習に反し,しかも教会はこれに乗じて,のちに皇帝,王を教会の奉仕者と規定した(829)。…
…818年,イタリア王ベルナールの反乱にくみし,兄とともに亡命した。822年ルートウィヒ1世の命により,事実上ローマに追放された同帝の長子ロタール1世の後見人となるが,以後ロタール派の中で一貫して重きをなし,ルートウィヒ1世を追いつめた第6回パリ公会議の主唱者であった。831年追放されて,ボッビオで没した(没年は836年とする説もある)。…
※「ロタール1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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