843年にルートウィヒ1世の3子の間で締結されたフランク王国の三分割条約。相続問題に起因して830年に始まったカロリング家の内乱は,ルートウィヒ1世の死(840)後第3子ルートウィヒ2世および末子のカール2世に対する長子ロタール1世の宗主権主張によって緊張を高めたが,841年のフォントノア・アン・ピュイゼにおけるロタール1世の敗北,翌年両弟が結んだシュトラスブルクの盟約により,843年8月ベルダンVerdunで,国土の平等分割を旨とする和平が成立した。これにより,ロタール1世は皇帝位と中部フランクおよび北イタリアを,ルートウィヒ2世は東フランク,カール2世は西フランクを領有することによって王国の分国支配体制が確立した。ベルダン条約は王国の一体性の保持を希求したが,実際には国家の東西への解体を準備し,また国土の分割も,内乱によって王権と競合する勢力を蓄えつつある帝国貴族層の主導下に,もっぱら経済的見地から実行されるなど,カロリング王家の衰退を刻印づけた。
執筆者:日置 雅子
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843年ルートウィヒ1世の3人の子にフランク王国を分割した条約。ルートウィヒ1世は、晩年(838)にロタール1世、ルートウィヒ2世、カール2世(西フランク王としてはシャルル1世)の3子に王国を分割して与えたが、ルートウィヒ1世の死(840)後、これを不満とする兄ロタールに、ルートウィヒ2世とカールとが結んでロタールを破り、ストラスブール(シュトラスブルク)の誓約によって同盟を固めた。国内の豪族たちも内乱の終結を望んで仲介にたったので、ロタールはやむなく平和交渉を開き、ベルダンVerdunで王国の3分割を取り決めた。その結果、ロタールの中部帝国(ロートリンゲン、ブルグント、北イタリア)、ルートウィヒ2世の東フランク王国(ライン川以東)、カールの西フランク王国(ローヌ川、ソーヌ川、シェルト川以西)が成立した。
[平城照介]
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…ルートウィヒ1世の理想主義はさらに教会の乗ずるところとなり,第6回パリ公会議は,王権を教会に奉仕するものと位置づけた。 843年のベルダン条約は,ロタール1世(ロタリンギア),ルートウィヒ2世(東フランク),カール2世(西フランク)の取分の線引きを明瞭にし,中世末まで唯一拘束力のある国際条約となった。しかしロタリンギアからは早期にイタリアとプロバンス両王国が分立し,残った狭義のロタリンギアは,メルセン条約(870)によって,ルートウィヒ2世とカール2世の間に分断された。…
※「ベルダン条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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