ベルダン条約(読み)べるだんじょうやく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルダン条約」の意味・わかりやすい解説

ベルダン条約
べるだんじょうやく

843年ルートウィヒ1世の3人の子にフランク王国を分割した条約ルートウィヒ1世は、晩年(838)にロタール1世ルートウィヒ2世カール2世(西フランク王としてはシャルル1世)の3子に王国を分割して与えたが、ルートウィヒ1世の死(840)後、これを不満とする兄ロタールに、ルートウィヒ2世とカールとが結んでロタールを破り、ストラスブールシュトラスブルク)の誓約によって同盟を固めた。国内の豪族たちも内乱終結を望んで仲介にたったので、ロタールはやむなく平和交渉を開き、ベルダンVerdunで王国の3分割を取り決めた。その結果、ロタールの中部帝国(ロートリンゲンブルグント、北イタリア)、ルートウィヒ2世の東フランク王国(ライン川以東)、カールの西フランク王国(ローヌ川ソーヌ川、シェルト川以西)が成立した。

[平城照介]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベルダン条約」の意味・わかりやすい解説

ベルダン条約
ベルダンじょうやく
Vertrag von Verdun; Traité de Verdun

843年ベルダンで行われたフランク王国3分割の取決め。ルートウィヒ1世 (敬虔王)の死後,ロタール1世,ルートウィヒ2世 (ドイツ王) ,カルル2世 (禿頭王) の3子は遺産を争い,長兄が皇帝権を相続すると,弟2人が同盟しフォントネーの戦い (841) で長兄を破り,領土の3分割を承認させた。ロタールは西ローマ皇帝位と中部フランクを,ルートウィヒは東フランクを,カルルは西フランクを領有した。東西フランクはそれぞれ後年のドイツおよびフランスの原型となった。なおメルセン条約 (870) で再分割が行われた。

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