日本大百科全書(ニッポニカ) 「ストラスブール」の意味・わかりやすい解説
ストラスブール
すとらすぶーる
Strasbourg
フランス北東部、アルザス地方の中心都市で、バ・ラン県の県都。ドイツ名シュトラスブルクStraßburg。人口26万4115(1999)、27万7270(2015センサス)。フランス東部では最大の都市圏をもつ。パリの東457キロメートル、ドイツとの国境に近く、ライン川の支流イル川沿いに位置する。19世紀初頭には人口約5万であったが、ドイツに併合された時期(1871~1918)に急増し、両次世界大戦中は人口停滞、第二次世界大戦後、郊外で増加した。アルザス工業の中心地の一つで、機械、電気、食料品、ビール醸造、製紙、精油、火力発電、水力発電などの工業が行われる。ライン川、マルヌ川、ローヌ川を結ぶ運河が町の東で交わり、生産物は大河港から積み出される。荷扱い量は年間約1500万トンに及び、カリ、建設資材、穀物、精油の輸出がおもである。行政機能を有するほか、ストラスブール大学やオペラ劇場の存在、音楽祭の開催など文化的機能もある。また国際見本市の開催地で、ストラスブール大聖堂があり、観光の中心地ともなっている。旧市街には古い家が残り、とくに「小さなフランス」とよばれる一画は絵のように美しい。旧市街は1988年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。EU(ヨーロッパ連合)地域の中心付近という立地条件により、オランジュリー公園のそばにヨーロッパ議会が置かれている。
[大嶽幸彦]
歴史
イル川支流に囲まれた地域にローマ人が都市を築き、アルゲントラートゥムArgentoratumと名づけた。軍事的要衝として発展し、また4世紀なかばには司教座も置かれる。フン人によって破壊されたが、のちアラマン人が定住し、フランク王国の支配下に入った。フランク王国分裂後は神聖ローマ帝国に属し、司教の支配を受けていたが、1262年にはこれを脱して帝国直属都市となった。12、13世紀には商工業も繁栄し、また中世末期から16世紀にはドイツ人文主義の一大センターとなる。1522年には宗教改革が行われ、1538年に創設された神学校は著名な新教理論家を集めた。1681年、ルイ14世によりフランスに合併されたのちも国際都市の性格を維持したが、フランス革命後はフランス文化の影響が強まる。プロイセン・フランス戦争により1870年以降はドイツの支配を受け、第一次世界大戦後ふたたびフランスに帰属した。第二次世界大戦中はドイツ支配が復活したが、1944年にフランスが奪回した。
[江川 温]