シュレスウィヒ・ホルシュタイン(読み)しゅれすうぃひほるしゅたいん(英語表記)Schleswig-Holstein

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

シュレスウィヒ・ホルシュタイン
しゅれすうぃひほるしゅたいん
Schleswig-Holstein

ドイツ北部の州。面積1万5763平方キロメートル、人口278万9800(2000)。ユトランド半島の基部に位置し、ハンブルクおよびエルベ川から北方、デンマークとの国境の間を占める。長らくドイツとデンマークの間の係争の地であったが、第一次世界大戦後、北シュレスウィヒ(デンマーク語名スリースウィSlesvig)がデンマークに帰属し、南シュレスウィヒとホルシュタインは1946年に1州となり、州都はキールに決定した。東部の新しい氷河堆積(たいせき)物の丘陵地は比較的肥沃(ひよく)で耕地も多いが、中部はやせ、西部の低湿地はほとんど牧草地であり、全体として酪農が盛んである。キール、リューベックなどで工業が発達し、南東部はハンブルクの郊外地帯である。北海バルト海運河が東西に横断し、全体としてスカンジナビア半島への通過地帯の性格が強い。

[齋藤光格]

シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題

この地域は中世以来、ドイツ人とデンマーク人の居住地が入り組み、政治的にも両者の間を揺れ動いた。ホルシュタインの住民はドイツ人であったが、シュレスウィヒにはデンマーク人も住み、15世紀末以来、両地域はそれぞれ公国となった。1460年、この地の身分制議会がデンマーク王を君主に選んだとき、王は両地域が将来も政治的に不可分であることを確認した。両公国はデンマーク王の支配下に大幅の自治を享受していた。しかし1815年、ウィーン会議がホルシュタイン公国をドイツ連邦の一部と認めると、以来デンマークはシュレスウィヒをデンマークに併合しようとしたため、シュレスウィヒに住むドイツ人の民族感情が高揚した。1848年、三月革命のなかで、両公国の住民の間でデンマークの支配から離れようとする動きが強まり、住民はドイツ連邦とフランクフルト国民会議に援助を求めた。これを受けたプロイセンはホルシュタインに兵を進め、デンマークとの間の戦争(デンマーク側では第一次スリースウィ戦争という)になった。しかしロシアやイギリスはデンマークを支持したので、プロイセンはマルメの和(マルメはスウェーデン南部の都市)を結んで撤退、1852年ロンドンで開かれた列国会議で両公国がデンマークに属する現状が認められた。

 1863年、デンマーク王位に交替が起こると、新王はデンマーク憲法をシュレスウィヒに適用しようとしたため、問題が再燃した。プロイセン首相ビスマルクはこの機をとらえ、オーストリアを誘って出兵し、1864年対デンマーク戦争(第二次スリースウィ戦争)が勃発(ぼっぱつ)した。このとき、列強もデンマークを支持しなかったので、プロイセン・オーストリア軍は勝利を収め、シュレスウィヒ・ホルシュタインはドイツ領になった。ドイツ国民の長年の念願が果たされたとはいえ、両公国は、住民が望んでいたように独立の公国としてドイツ連邦に属するのではなく、プロイセン・オーストリアの共同統治下に置かれた。しかしまもなくプロイセンとオーストリアは両公国の統治をめぐって争い、ビスマルクは1866年プロイセン・オーストリア戦争でオーストリアを破って、両公国をプロイセン領に編入した。第一次世界大戦後の1920年、ベルサイユ条約に基づき住民投票が行われ、シュレスウィヒの北部はデンマークに帰属した。

[木谷 勤]

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