日本大百科全書(ニッポニカ) 「リューベック」の意味・わかりやすい解説
リューベック
りゅーべっく
Lübeck
ドイツ北部、シュレスウィヒ・ホルシュタイン州の港湾・商工業都市。人口21万3400(2000)。バルト海に注ぐトラーフェ川の河口近くに位置する。中世以来、ドイツのバルト海への窓口であったが、第二次世界大戦後は旧東ドイツが分離したためその機能は弱まった。しかし貿易は今日も市の経済的基盤であり、木材、農産物、鉄鉱石、銅鉱石を輸入し、石炭、鉄鉱石、塩などを輸出する。その関連業種である貿易商社が多く立地する。工業は19世紀におこり、鉄や銅の精錬、機械、食品などの製造が行われる。中世にハンザ同盟の盟主として「ハンザの女王」とよばれた歴史を反映し、教会の七つの塔がそそり立つ旧市街を中心に歴史的建造物が多く残る。マルクト(市場)広場周辺には聖マリア教会(13~14世紀)、市庁舎(13世紀)、15世紀の城門ホルステン門、妻入の民家などが多く、れんが造の北ドイツ・ゴシック様式の典型がみられる。歴史や地理の協会、博物館、資料館など、文化施設も多い。その古い町並みは1987年「ハンザ同盟都市リューベック」として世界遺産の文化遺産に登録されている(世界文化遺産)。
[齋藤光格]
歴史
市の起源は、スラブ人の集落リウビケLiubiceにさかのぼる。この地に1143年ホルシュタイン伯アドルフ2世が都市集落を設けたが、1156年大火で焼失し、1158/59年ザクセン公ハインリヒ獅子(しし)公がこの地を譲り受け、改めて都市を建設した。当初の市民はフランドル、ライン川下流、ウェストファーレンから誘致された商工業者であった。ハインリヒが賦与した都市法は、リューベック都市法としてのち多くの都市で採用された。ハインリヒの失脚後、リューベックは1188年皇帝より自治特許状を受け、1226年には帝国直属都市となった。翌27年、リューベック市はシュレスウィヒ・ホルシュタインを支配するデンマーク王をボルンヘーフェトの戦いで撃破し、北欧における有力な政治的指導都市となる。
バルト海と北海を連結する地点に位置するところから、バルト海貿易の集中点となり、そこで結成されたハンザ同盟の盟主となった。1358年以来ハンザ会議の開催地となる。1368年ふたたびデンマークと戦い、コペンハーゲンを占領し、シュトラルズントの平和(1370)を結んだときが、リューベックの全盛期である。1397年にはシュテクニッツ運河によってハンブルクと直結された。15世紀後半になると、オランダ、イギリスがズント(エアスン海峡)直航でバルト海に入ってきて、リューベックの経済的優位に決定的な打撃を与えた。宗教改革時には、新教派の市長ウッレンウェーファーが実権を握ったが、デンマークとの戦いに敗れて失脚し、同時にリューベックの政治的覇権も失われた。以後、自由都市の地位を維持したが、1937年ナチスに自由を奪われた。現在は一地方都市となっている。
[瀬原義生]