改訂新版 世界大百科事典 「オーストリア」の意味・わかりやすい解説
オーストリア
Austria
基本情報
正式名称=オーストリア共和国Republik Österreich
面積=8万3871km2
人口(2010)=839万人
首都=ウィーンWien(日本との時差=-8時間)
主要言語=ドイツ語
通貨=オーストリア・シリングAustrian Schilling(1999年1月よりユーロEuro)
オーストリアという呼称は英語名で,ドイツ語では,エスターライヒÖsterreich。〈東の国〉を意味するが,国土は,ヨーロッパの中央部を占め,ドイツはもとより,フランス,イタリアとも深くかかわりあい,ヨーロッパ史上,重要な位置を占めてきた。
自然
地形,地質
国土の総面積は北海道とほぼ等しく,その約2/3は東アルプス(アルプスのうち,ライン川上流とイタリアのコモ湖を結ぶ線より東側を指し,西アルプスとは地質構造のうえからも区分される)が占め,ボヘミアの森の南東部を合わせると国土の3/4は山地である。丘陵地,台地,低地は,アルプスの南東麓~東麓地域,ウィーン盆地およびアルプスとドナウ川間のアルプス前縁地に発達する。
東アルプスでは,地質構造が地形に反映し,主として結晶岩類,片岩類から成る中央アルプス帯が山地の中軸を構成し,その北側,南側にはきわめて顕著な東西方向の構造性縦谷が発達する。それらは北側ではイン川,ザルツァハSalzach川,エンスEnns川,ムールMur川からミュルツMürz川の谷,南側ではドラバDrava川の谷である。これらの縦谷を隔てて中央アルプス帯の南北両側にカルク(石灰岩)アルプス,さらに外側にアルプス造山運動の過程で堆積・形成されたフリッシュFlysch帯,モラッセMolasse帯が並ぶ。東アルプスでは,中央アルプス帯が最も高く(オーストリアの最高峰グロースグロックナー山(3798m)を含む),南北両方向に低下する。西から東への一般的な山地高度の低下も顕著で,3500mから1800mになる。東アルプスの現在の雪線高度は2600~3100mで,アルプス全体の氷河面積3600km2のうち,1400km2が分布する。
アルプス前縁地は丘陵・台地地形を呈し,地質的にはモラッセ帯にあたっている。その幅はイン川下流部で50km,イップスYbbs川下流で約10kmと狭くなる。この前縁地には,第四紀の氷河期にアルプスから氷河が繰り返し流れ出て広がった。氷河の残した地形から,少なくとも6回の独立した氷河期があったとされている。ドイツのアルプス前縁地から連続する湖沼群はそれらの氷河が溶け去ったあとの凹地に形成されたものである。氷河の規模は,上流域の広さや山頂高度と関連し,最後の氷河期について言えば,イン川,ザルツァハ川,トラウンTraun川の谷からは山麓に広がったが,それより東では谷の中で終わっている。ボヘミアの森は,アルプスに比べて古いヘルシニア造山運動によって形成されたもので,花コウ岩より成る波状の高原状地形を呈する。その南縁はほぼドナウ川に沿っているが,一部はアルプス前縁地側にも分布し,ドナウ川が花コウ岩高原を深くうがったメルク~クレムス間のワッハウWachau峡谷はライン峡谷に匹敵するともいわれる景勝地である。
ウィーン盆地は,アルプスとカルパチ山脈の結び目にあたる構造盆地で,第三紀を通じて海域から淡水湖となり,しだいに陸化したものである。ドナウ川より北のウィーン盆地北部は丘陵地帯で,オーストリア第1の石油天然ガス産地である。一方,南部では南部カルク・アルプスと中央アルプスの境界部へ湾入状に入り込み,山地,盆地を限る断層線上は温泉地帯となっている。ウィーン盆地の東はライタLeitha山地を経て低地が発達し,そこには南北35km,最大幅12km,最大水深1.8mの浅いノイジードル湖がある。湖水は約1.5g/lの塩分を含み鹹湖である。アルプスの南東部グラーツ周辺の構造性盆地では,丘陵の発達が顕著である。
気候,植生
オーストリア全体としては夏冷涼な湿潤温帯気候に属するが,アルプスの高所は氷雪気候地域である。夏と冬の平均気温はそれぞれ20℃,-1~-2℃(ウィーン盆地)であるが,山岳地域ではいずれも1~2℃低い。降水量はアルプスの北側では大西洋の影響を受け年間600~1500mm,場所によっては2000mmに達する。その量は山稜の高さではなく風に対する位置と地形によって決まる。東部~南部では450~1000mmに減少する。総降水量に占める雪の量は東アルプスでは規則的に変化し,標高1500mでは降水の46%が,2000mでは59%が,2500mでは72%が,そして3600m以上では100%が雪として降る。アルプスの気候で特徴的なのは気温の逆転現象であり,特に冬の気温は,山の上で高く,冷気の流入する谷や盆地では著しく低温である。このため,山頂部の気温年較差は谷のそれに比べてはるかに小さく,ホーエ・タウエルン山脈のゾンブリックSonnblick山(3105m)では14.4℃であり,たとえばウィーンの21℃と比べても明らかである。フェーンもアルプスの気候を特徴づける現象で,とくにライン川の谷とイン谷で著しい。アルプスの北方を低気圧が通過し,暖気流が南から流入するとき生ずる。一年を通じて起こるが,とくに春・秋に著しい。フェーンは急激な昇温をもたらし,融雪洪水,雪崩を引き起こす。たとえばイン谷では1960年の10月には15日間もフェーンが生じた。インスブルックでは年間のフェーン日数は,最大104日(1916)と最小21日(1955)の間にある。
アルプスの西から東への高度低下は,植生,土地利用,居住の高度限界の低下を伴う。森林限界は西部で2200m,東部で1700~1800mであり,東アルプス東部は森林に覆われている。居住限界は西から東へ1900mから1000mへと低下する。このような東西方向にみられる生態学的相違は南北方向にも現れる。降水量の多いアルプス北縁では森林限界は低下し,ブナ林,ブナ混合林が卓越する。一方,オーストリア・イタリア国境をなすカルニッシュ・アルプスKarnische Alpenはすでに地中海性気候影響下にあり,場所によっては赤ブナが森林限界をなす。東部の低地はアルプス地域と異なり,パンノニア植物区に属し,乾燥の著しい所ではステップ植生が出現する。
執筆者:平川 一臣
住民
現在のオーストリアでは住民の約99%がドイツ語を話すが,第1次世界大戦前のハプスブルク帝国は,行政的にいくつもの領邦(ラント)に分かれた多民族国家で,総人口もたとえば1847年には3731万7192を数えた。領域的に縮小した現在のオーストリアにおいても,ケルンテン,ブルゲンラント,ウィーンには少数の民族グループが居住している。1971年の調査によると,南ケルンテンにスロベニア人1万9593(約4万という数字もある)。ブルゲンラントにクロアチア人2万4514,同じくブルゲンラントにハンガリー人が同州人口の約2%,ウィーンにチェコ人とスロバキア人の民族言語を話す集団が約1万居住する。これらの民族集団の諸権利は1955年の国家条約で保障されているが,実際にはなお民族言語の同権やラジオ,テレビのプログラムなどをめぐって紛争が生じている。政治的亡命者も多く,1956-57年のハンガリー動乱には23万人が,また68年のチェコスロバキアへのソ連軍介入に際しては,7300人がオーストリアに亡命した。住民の宗教は約88%がローマ・カトリック,6%がプロテスタント,1.5%がその他の宗派,4.5%が無宗教である。またユダヤ人は1920年代にはウィーンを中心に約20万人いたが,現在はわずかで,60年に約1万2000人と報告されている。オーストリアにおいても人口は大都市へ集中する傾向にあり,人口1万以上の44の都市に全人口の43%が,またウィーンには23%が集中している。
歴史
ここでオーストリアの歴史として取り扱うのは,ドイツ東方の国家としての形成が始まった10世紀末以来約1000年の期間である。いまでこそオーストリアは人口わずか810万の小国であり,一部のハンガリー系とスラブ系を除いて住民の大部分はドイツ系だが,かつてはハプスブルク王制下の多民族国家としての栄光に包まれ,オーストリアの運命はとりもなおさずヨーロッパ大陸の運命でもあった。
古代
10世紀以前のオーストリアは,すでにさまざまな民族の混交のなかにあった。その歴史はなによりも地理的条件によって制約されている。それはヨーロッパにおける東と西の,また北と南の交通の要衝として,ローマ,ゲルマン,スラブという三つの文化圏の接点であった。そればかりかときとしてアジア系の文化も交錯している。それはいわば雑種文化である。
すでに前10世紀~前4世紀の初期鉄器時代にインド・ヨーロッパ系のイリュリア人がいわゆるハルシュタット文化を生み,それにケルト人とローマ人の文化が続いた。とりわけローマの支配下では経済と文化が大きく伸びる。街道が敷かれ,ブドウが栽培され,ローマ法が導入され,ローマの兵屯地から現在のウィーン,ザルツブルク,リンツの都市が生まれ,さらに3世紀にはキリスト教がひろめられるようになる。さらにそれから100年たつと,オーストリアの地は民族移動の場となり,ゲルマン人,フン族,アバール人,マジャール人らによる角逐の場となった。500年から700年にかけてはバイエルン人がはいりこみ,8世紀末にはカール大帝が騎馬民族アバール人を破り,カロリング朝フランク王国の東の防壁として辺境伯領Markgrafschaftを設けた。880年にはマジャール人が侵入するが,955年オットー1世がレヒフェルトの戦でマジャール人を打ち破るのである。
ハプスブルク王制の確立
次にくる約1000年の時期,オーストリアを支配するのはバーベンベルクBabemberg家とハプスブルク家の二つの王朝である。バーベンベルク家は270年間,ハプスブルク家は640年間オーストリアを統治するのである。すなわち976年にバーベンベルク家のレオポルトが辺境伯領オーストリアに封ぜられ,12世紀にはハインリヒ2世がウィーンに居城を構えた。バーベンベルク家の統治下でオーストリアは栄え,金銀,塩の生産が上昇し,修道院が西の地方からしだいに東に移され,さらに神学研究や詩作も奨励され,ウィーン宮廷ではミンネ詩人ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデが活躍する。996年の史料には,〈東の国Ostarrichi〉の名称が人々の口の端にのぼるようになったと記されている。
1273年神聖ローマ帝国の空位時代が終わり,ハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ国王に選ばれた。以後〈オーストリア家〉は640年間の統治のなかで20人の皇帝と国王を送り出した。このハプスブルク統治下でオーストリアの版図は最大となり,〈日の沈むことなき〉時代を迎え,1526年にはボヘミアとハンガリーがオーストリアに統合された。
国家制度が強固になるにつれて文化も興隆した。1365年にはウィーン大学が創立され,15世紀末には人文主義の新しい潮流がオーストリアにも流れこんだ。芸術もまた13世紀末までのロマネスク,13,14世紀のゴシックの時代を経て,皇帝マクシミリアン1世の治下には〈ルネサンス〉期が始まった。マクシミリアン1世みずから詩作し,演劇を奨励したが,オペラや寓意的な祝祭劇,さらにキリスト受難劇や謝肉祭劇などいまも残るような宗教的民衆劇がこの時期にさかんとなった。
バロックの時代
1529年と1683年の2回にわたって強力なオスマン・トルコ軍がウィーンを包囲した。しかし結局オーストリアはオスマン・トルコ軍を破ることに成功し,これによってオーストリアも大国の仲間入りをしたのである。サボイ公オイゲンはオスマン・トルコ軍を破るのに功があったが,彼の夏の宮殿ベルベデーレはウィーンにおけるバロック建築の傑作である。この時期はバロックの時代といえる。バロックの巨匠フィッシャー・フォン・エルラハはイタリア的素材をオーストリアの民族的様式に結びつけ,バロック様式をオーストリア特有のものとして示すことに成功した。またこのバロック時代には,オーストリアはヨーロッパの劇場文化の中心であり,とりわけウィーン宮廷のオペラやバレエの上演は国際的性格をもった。
1700年ハプスブルクのスペイン家系が断絶し,それに続くスペイン継承戦争の後,イタリアとオランダのスペイン領はオーストリア家系の手に入った。この時期マリア・テレジアはプロイセンのフリードリヒ1世に軍事的に対抗する宿命を担って即位し,1740年から80年まで統治した。彼女は1736年ロートリンゲン公フランツ・シュテファンFranz Stephan(1708-65)と結婚し,それによってハプスブルク・ロートリンゲン家を創設した。彼女は16人もの子をつくり,シェーンブルン宮殿を愛好したが,他面強力な国家改革を推し進め,統一的な行政機構としての官僚制的国家をつくり出した。さらにマリア・テレジアは財政を改善し,重商主義政策に対応して商工業を興し,司法を行政から分離し,拷問を廃止した。教育制度も改革され,小学校が設けられ,大学も教会権力の手から離れて国家機関となったのである。マリア・テレジアの子ヨーゼフ2世も啓蒙の精神をもって改革を続行したが,あまりに急進的であったため成果を挙げることはできず,その成果は農奴制の廃止と信教の平等にとどまった。他面18世紀末ウィーンは作曲家のたまり場であり,ハイドン,モーツァルト,ベートーベンら,〈ウィーン楽派〉の時代が始まった。
48年革命
19世紀へ移るとナポレオン戦争が生じた。神聖ローマ帝国の諸侯はナポレオンと同盟し,帝国はもはや政治的現実性をもたなくなったため,フランツ2世は1804年〈オーストリア皇帝〉の称号を受けて,フランツ1世となり,06年8月6日〈ドイツ国民の神聖ローマ帝国〉の帝位を降りる。ハプスブルク王制は多民族国家として,この時期に次の12の領邦(ラント)とハンガリー(クロアチア,スロベニアを含む),トランシルバニアを内包していた。12の領邦とは,ウンター・デル・エンス(現,ニーダーエスタライヒ),オプ・デル・エンス(現,オーバーエスタライヒ),シュタイアーマルク,ケルンテンおよびクライン,キュステンラント,チロル,ボヘミア,モラビアおよびシュレジエン,ガリツィア,ロンバルディア,ベネチア,ダルマツィアである。1809年オーストリア軍はナポレオン軍にワグラムWagramの戦で敗北し,シェーンブルン宮殿でナポレオンと講和を結んだ。新しい外相メッテルニヒはナポレオンに近づき,皇女マリー・ルイーゼMarie Louise(1791-1847)をナポレオンの妃とした。チロルではアンドレアス・ホーファーAndreas Hofer(1767-1810)に率いられた人民蜂起が生じるが,これも敗北した。しかし破局的なロシア遠征後ライプチヒの戦でナポレオンの敗北が決定的となった。
1814年メッテルニヒがウィーン会議を招集した。この会議によってヨーロッパの新秩序が決定され,諸大国の勢力均衡の上に立って以後平和が続くが,他面では復古的体制が確立され,学生運動組織〈ブルシェンシャフト〉の弾圧などを通して権力政治の色彩が強められた。しかしまた19世紀前半は産業,技術,経済が急速に発展し,ヨーロッパ域内では後進的ではあっても産業革命がオーストリアでも徐々に進行した。1815年ウィーンの工業大学開校,16年国立銀行創立,37年にオーストリア最初の蒸気機関車が走った。
ウィーン会議から三月革命(48年革命)にかけての時期は〈三月前期Vormärz〉といわれるが,この時期は芸術上では〈ビーダーマイヤー〉期といわれる。洗練されて愛くるしい装飾性を特徴とし,市民層の〈ビーダーマイヤー風居室〉など,生活が一応は豊かとなったものの,時代の表面からは身をひそめようとする市民層の意識を表現する。またこの時代のウィーンを最も鮮烈に特徴づけているのは,市外区で上演された民衆喜劇である。それはA.シュトラニツキー演じる〈ハンスブルスト〉の道化的形象から始まり,J.ネストロイの風刺的パロディやF.ライムントの童話的夢幻劇で頂点に達する。グリルパルツァーはこの民衆喜劇から影響を受け,それをバロック演劇や古典演劇の形式と統一してその作品を完成させた。
1840年代にはいると,オーストリアにもプロレタリアートと呼ばれた貧民層が生じ,大衆的貧困とあいまって社会問題を形成した。他方王権に対する市民層の権利要求もしだいに強まり,48年三月革命の波がオーストリアをもとらえた。ウィーンの市民,学生,労働者は憲法の制定,出版の自由,国民軍の設置などを要求し,3月から5月にかけて要求のほとんどをかちとった。メッテルニヒはロンドンに亡命し,皇帝はインスブルックに逃げた。ハンガリーでもハプスブルク王制から独立しようとする闘争が生じ,革命運動はオーストリア帝国の各地に波及した。しかし48年10月末ウィーンは皇帝軍に包囲攻撃されて降伏し,49年8月ハンガリーの革命勢力もロシア軍の介入の前に降伏した。こうして革命は敗北したが,しかしオーストリアではこの革命によって立憲制の基礎ができ,また農民は賦役から解放された。
1848年12月,病弱のフェルディナント1世に代わって18歳のフランツ・ヨーゼフ1世が皇帝に即位し,以後68年の長きにわたってオーストリアを統治する。しかし彼の個人的生活は落日寸前の大帝国にふさわしく孤独で憂愁にみちていた。帝位を継ぐべき息子ルドルフは心中し,妃エリーザベトはアナーキストの凶刃に倒れた。66年オーストリアは,ケーニヒグレーツKöniggrätzの戦でプロイセンに敗れ,翌67年いわゆるアウスグライヒAusgleich(妥協)を通してオーストリアとハンガリーとの二重帝国が成立し,オーストリアは軍事と外交を除くすべてを自立したハンガリーの手にゆだねた(オーストリア・ハンガリー二重帝国)。第1次世界大戦前の相対的安定期にはオーストリア・ハンガリーの経済は急速に発展した。しかし19世紀後半の憲法論議や社会民主党の内部論争などを通しても民族問題はついに解決できず,社会問題とからみあってこの時期にはさらに先鋭化した。この状況のなかで医師のV.アードラーは同志とはかってオーストリア社会民主党を創立した。またウィーンはキリスト教社会党の市長ルエガーKarl Lueger(1844-1910)の下で近代的大都市に発展した。
1890年ころ文学の領域で転換が生じ,ホフマンスタールやシュニッツラーらの〈世紀末世界Fin de siècle-welt〉が生み出される。ホフマンスタールはR.シュトラウスと共同して《サロメ》その他の作品を生み,またシュニッツラーは,心の内奥の独白を描くことで同郷人のフロイトの影響を受けている。さらに旧来の方法から〈分離〉しようとしたゼツェッシオン運動は絵画と詩における印象主義に道を開いた。また99年以降K.クラウスは《炬火》誌を通して時代批判を行い,またウィーンとならんでプラハも文学運動の中心であり,そこでカフカ,リルケ,ウェルフェルが生まれた。
共和制の成立
1914年6月28日一セルビア人がサラエボでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを暗殺し,それが直接の誘因となって第1次世界大戦が勃発した。敗戦の結果オーストリア皇帝カールは1918年11月11日退位し,翌日臨時国民議会がオーストリア共和国(正称はドイツ・オーストリア国)を宣言した。講和成立後,後継国家としてオーストリア,ハンガリー,チェコスロバキアが生まれ,さらにセルビア人クロアチア人スロベニア人王国が生まれ,のちにユーゴスラビア王国となった。
オーストリア共和国もまた戦後,食糧難をはじめとする経済的困難に直面し,さらにはイタリア,ドイツに独裁政権ができたためもあって,社会民主主義者とブルジョア層の対立が重大化した。社会民主党系の労働者を主体とする防衛同盟Schutzbundと,市民・農民からなる護国軍Heimwehrという二つの武装集団が対立し,とくに34年2月12日にはウィーンを中心に防衛同盟が蜂起した。蜂起は軍によって鎮圧され,その結果多くの者は投獄され,死刑判決を受ける者もあり,またスターリン体制下のソ連へ逃げて処分された者もいた。これよりさき1933年3月議会はみずから閉鎖し,首相E.ドルフスがクーデタ的にすべての権力を独裁的に握った。同時にナチス分子も活動を強め,34年7月ドルフスもまたナチスに暗殺された。ドルフスの後継者シュシュニックKurt Schuschnigg(1897- )はオーストリアの独立を確保しようとしてヒトラーと会い,またそれを3月13日の国民投票に付そうとしたが,その先手を打って38年3月11日ナチスがオーストリアに進駐した。こうしてオーストリアはドイツ帝国に〈併合(アンシュルスAnschluss)〉された。第2次世界大戦中にはオーストリア国内の各所でナチスに対する抵抗運動がつづいたが,その解放はナチス・ドイツ帝国の軍事的敗北をまつことになる。
執筆者:良知 力
政治,外交
1945年4月,ウィーンは,ドナウ川にかかるライヒス・ブリュッケ(ライヒ橋)を越えて進攻してきたソ連軍に占領され,この橋は一時赤軍橋Rote Armee Brückeと改名された。5月半ばにいたり,オーストリア全土は,ソ連,アメリカ,イギリス,フランスの4連合国の分割占領下に入った。5月8日ドイツの無条件降伏に伴い,それまでドイツとの合邦を強いられていたオーストリアは,1937年末の国境線でドイツから分離された。オーストリアもドイツと同じく分裂国家の運命をたどるかと思われたが,すでに占領中からウィーン中央政府に大幅な自治権が認められ,55年5月15日調印の国家条約Staatsvertragによって,オーストリアは,38年3月18日のドイツとの合邦以来17年ぶりで独立を回復,永世中立国として新発足した。
憲法
1945年4月27日に公布された〈臨時オーストリア政府〉の宣言第1条により,民主的オーストリア共和国が,1920年10月1日の憲法(1929年12月7日大幅改正)の精神において再建されることが決定され,45年5月1日の憲法継承法によって1920年の憲法が復活した。1920年憲法は,1918年の敗戦とともにハプスブルク王朝の支配が終りを告げたあと,民主的連邦共和国の設立を宣言したものである。
連邦は,ブルゲンラント,ケルンテン,オーバーエスタライヒ,ニーダーエスタライヒ,ザルツブルク,シュタイアーマルク,チロル,フォアアールベルク,ウィーンの9独立州(ラント)からなり,連邦の首都はウィーンである。連邦と州との権限関係は,憲法に詳しく規定されている。元首は大統領であり,国民が直接に選挙する。また,〈統治者の家系またはかつて統治を行った家族に属する者は被選挙権を有しない〉とされているが,これは具体的には,最後の皇帝カール1世の長男でドイツに亡命したオットーの野心を警戒したものである。大統領の任期は6年で,任期満了直後の再選は1回に限られている。ただし,政治の実際面で重要なのは首相であり,首相を長とする連邦政府は国会に責任を負う。国会は,下院Nationalrat(定数183名)と上院Bundesrat(定数63名)からなる二院制で,連邦政府と上下両院議員が法案提案権をもつ。下院は,ふつう秘密・直接選挙によって選ばれた任期4年の議員からなるが,大統領は国民議会を解散することができる。ただし同一の原因による解散は1回に限られる。上院の権限は弱い。各州議会の代表によって構成される上院は,下院の議決した法案に異議の申し立てができるが,下院が総議員の1/2以上の出席の下に最初の議決を再び可決すれば,この議決は発効する。国民投票Volksabstimmungの制度が名目にとどまらず,実際に活用されていることは,オーストリアの政治の特色といえよう。国民投票の実例として,後述する78年の原子力発電所をめぐる国民投票をあげることができる。憲法の全文改正もまた国民投票を必要とするし,部分改正も,上下両院いずれかの議員の1/3の要求があれば,国民投票にかけなければならない。1929年の大幅改正によって,大統領は国民の直接投票により選出されることになった。この大幅改正のほかに,部分改正はしばしば行われている。国民投票とならんで国民請願Volksbegehrenが制度化されている。
政党
オーストリアにおける二大政党は,オーストリア国民党Österreichische Volkspartei(ÖVP)とオーストリア社会党Sozialistische Partei Österreichs(SPÖ)である。両党は,第2次大戦後,下院議席をほぼ二分する議席数をもち,その議席差もつねに10~20という小差で推移している。
ÖVPは第一共和制時代ほとんど一貫して第一党であったキリスト教社会党の後身であり,カトリック的保守政党の立場を棄ててはいないが,聖職者の政党活動が禁止されたことにより,第一共和制下のキリスト教社会党時代に比し,宗教色と世界観政党の性格とは薄れた。ÖVPの三つの支柱は,農民同盟Bauernbund,経済同盟Wirtschaftsbund,労働者サラリーマン同盟Arbeiter-und Angestelltenbundである。第一共和制時代は一貫して第2党のSPÖをおさえ,戦後も1970年の総選挙までは第1党であったが,その総選挙でSPÖが過半数を制しないながら比較第1党となり,71年の総選挙で,SPÖは絶対多数を確保するにいたった。それ以後83年までSPÖが絶対多数を独占しつづけたが,同年過半数を割った。
オーストリア社会党(SPÖ)は,第一共和制時代のオーストリア社会民主党の後身である。この党は1919年,いったんキリスト教社会党と連立政権を組織したが,その後両党の争いは激化し,ついに34年2月の武装決起となり,同党の敗北に終わった。このような抗争がオーストリア・ナチス党の進出を招いたことから抗争の無益なことをさとった二大政党は,戦後25年間一貫して連立政権を組織したが,これにはSPÖの側で,シェルフAdolf Schärf(1957年に大統領に当選し63年に再選)にひきいられる温和派が45年以来指導的立場にあったことと,ÖVPの側が非妥協的な世界観政党の立場を脱却したこととが大きな前提をなしている。SPÖは労働者に基盤をおく政党であるが,オーストリアのマルクス主義の大立者として知られるO.バウアーにひきいられる急進派が1934年以降大部分亡命し,戦後帰国してももはや党内で指導的発言権を得られなかったという事情もあってマルクス主義政党の性格が薄れ,ÖVPとの連立が容易となった。党首の地位はシェルフからピッターマンBruno Pittermann,クライスキーBruno Kreiskyを経てフラニツキーFranz Vranitzkyへと移っている。
オーストリア共産党Kommunistische Partei Österreichs(KPÖ)は,1918年11月3日に創設されたが,第一共和制時代,国会に議席を有するにいたらず,戦後モスクワに亡命していたコプレニッヒJohann KoplenigやE.フィッシャーらによって再建され,ソ連占領軍は党勢の伸びを期待し支援したが,戦後初期国会に若干の議席を獲得したにとどまり,ソ連占領下東欧諸国におけるような急激な成長を遂げることがなかった。59年以後,同党は国会に議員を送りこんでいない。
オーストリア自由党Freiheitliche Partei Österreichs(FPÖ)は,二大政党のいずれもが下院の絶対多数を占めるにいたらない場合にキャスティング・ボートを握る政党として無視できないが,その構成は雑多な分子の寄集めである。1948年に創設され,旧ナチス党の残党も加わった国家主義者の団体である無所属連合Verband der Unabhängigenが,56年一部の自由主義者や保守主義者を吸収して再編成された。ドイツとの合邦を主張する大ドイツ主義者が中心となった無所属連合は,51年には連邦大統領の選挙で,同党の候補ブライトナーBurghand Breitnerが,総投票中の15.4%を獲得して,ナチスの復活として連合国側から警戒されたが,この派の勢力としてはこれが最大限であり,FPÖに再編成されてからは党勢は後退している。83年に同党は初めて政権に加わることになる。
FPÖについて特筆すべき事柄は,外国人をオーストリアから排除すべしと主張する右翼民族主義者のハイダーJorg Haider(1950- )が党首に就任したことによって,従来から動揺を続けていた同党が右傾し,SPÖが83年から続く同党との連立を86年に解消するにいたったことである。ハイダーの存在は,ドイツにおいては,むしろネガティブな意味で注目され,警戒されている。
またFPÖは,94年6月12日に行われた,EU加盟の是非を問う国民投票に際して,緑の党とともに反対の立場を鮮明にしたが,その理由は緑の党とはまったく違っていて,同党の掲げるドイツ民族主義の立場から,オーストリアにとっての西欧志向を意味するEU加盟に反対したと考えられる。
ところで,1966年から71年までのÖVPの単独政権と71年から83年までのSPÖの単独政権,そして83年から86年までの小連立政権を別にすれば,戦後のオーストリアは,二大政党の大連立内閣の統治が伝統として根付いているといってよい。95年には危機的な状況が訪れたが,結局この伝統が維持された。この伝統を支えているのは,〈プロポルツProportz〉というほとんど制度化された慣行である。これは,選挙の結果によって,下院のなかだけでなく,国家の重要なポストを両党に配分するという,オーストリア特有の方式である。かつて,1934年の内戦では,両党の先行形態に相当する二大勢力は相互に武器を手にして戦った。その反省に立って,両党間の平和と国家全体の平和を目的として成立したのがこの慣行である。しかし,これにより,国家の重要なポストは,両党のメンバーか,両党のいずれかに関係をもつ人々によって独占されることになり,社会の活性化とは反対の沈滞した空気が一般化するという弊害をも伴った。しかし,この方式は次第に形骸化するものと予想されている。
このプロポルツは,オーストリア特有の社会的パートナーシップ,ドイツ語でいうゾチアルパルトナーシャフトSozialpartnershaftの一側面である。社会的パートナーシップの意味するところは,簡単にいえば労使協力体制であるが,オーストリアでは,それが制度化され,国家全体にゆきわたっていて,他のヨーロッパ諸国に類を見ないオーストリア政治の特質を形成している。しかし,オーストリアのEU加盟は,中期的,長期的に見れば,このようなオーストリア政治の特殊性を減少させて,オーストリアを西欧の〈普通の国家〉にする方向に作用し,この意味の西欧化を促進するであろうと考えられる。
外交
オーストリアが,4連合国の占領から解放されて独立をかちとるまでの歩みは多難であった。独立の基礎となる国家条約(実質上講和条約と同じもの)をめぐる交渉は,1946年春,アメリカの国務長官バーンズJames Byrnesの提案に始まる。しかし,47年春モスクワで開かれたアメリカ,イギリス,フランス,ソ連の4国外相会議が失敗に終わったころから,米ソ二大陣営の対立が激化し,国家条約の成立は絶望視されるにいたっていた。このような事態が緩和されたのは,55年に本格化する〈雪どけ〉の到来によってである。マレンコフ,ブルガーニン両名の解任と時を同じくして,55年2月8日,ソ連の外相モロトフが,〈オーストリアがドイツと合邦を行わず,いかなる軍事同盟にも参加せず,領土内に他国の基地建設を許さないという保証をするならば,ドイツとの講和条約締結以前に占領軍を撤退させる〉旨声明して以来,急転直下事態は国家条約成立に向かった。オーストリア首相ラープJulius Raab以下のオーストリア使節団は,4月11日モスクワに到着して賠償問題を解決,5月2日から12日にかけてウィーンで開かれたアメリカ,イギリス,フランス,ソ連の4占領国の大使会議は国家条約の最終案を作成,5月15日,4国外相はウィーンのベルベデーレ宮殿〈大理石の間〉でこれに調印した。この国家条約は,第1次世界大戦後のオーストリアとの講和条約すなわちサン・ジェルマン条約と同じく,オーストリアとドイツとの〈合邦〉を禁止し,ここに,1938年3月から45年5月までドイツの一部であったオーストリアは,ドイツとはまったく別個の国家として独立した道を歩むべきことが最終的に決められたのである。同時に,この国家条約によって,ケルンテンに居住するスロベニア人,ブルゲンラントに居住するクロアチア人などの少数民族の言語が公用語として尊重されるべきことが明らかにされた。これらの少数民族の存在は〈諸民族の牢獄〉といわれたかつてのオーストリア・ハンガリー二重帝国の遺産であるが,現在のオーストリアが圧倒的に多数を占めるドイツ民族から成る国家である事実を変えるものではない。
国家条約が4国とオーストリア国家とにより批准されたあと,オーストリア国会は,ラープらのモスクワ訪問の結果5月15日に発表された〈モスクワ覚書〉で約束したとおり,永世中立を宣言する憲法法規を可決した。オーストリアの中立化は,〈モスクワ覚書〉によってオーストリアがソ連に約束した義務であり,この憲法法規は,ソ連の同意がないかぎり,オーストリア1国だけの意志で変更または廃棄することはもはやできなかった。したがって,オーストリア国民は,中立違反の口実を与えやすい行為によって,ソ連から〈モスクワ覚書〉違反を指摘され,場合によってはソ連軍の再進駐を招くかもしれぬことを,極度に恐れていた。オーストリアがECへの加盟に踏み切らなかったのも,ひとつはこの不安からであった。オーストリアの中立は,多分に,ソ連の占領から逃れるための代償という色彩が濃い。また,オーストリアの,小国としての歴史も,第1次大戦後ドイツと切り離された1918年以来のものである。したがって,同じ中立の小国ではあっても,長い歴史と中立の決意とに支えられたスイスとは異なる。もっとも,小国でしかも中立というオーストリアの立場は,いかなる国にも侵略の脅威を感じさせないという点では,高く評価することができる。このようなオーストリアの長所・利点を最大限に生かして,国際政治の場でオーストリアに強い発言力を確保することに成功したのが,クライスキーであった。
クライスキー時代
1959年以来10年以上にわたって外相の地位にあり,オーストリアとイタリアとのあいだに介在する難問である南チロル問題の解決にあたるなど,外交上の手腕を評価されていたクライスキーBruno Kreisky(1911-90)が,SPÖの第一党への躍進により70年首相(このときは少数党内閣)の地位に就任したときから,オーストリアの外交に新しい一時代が訪れた。軍縮について主導権をとろうと努めていたスウェーデン,ヨーロッパ安全保障会議開催に意欲を示していたフィンランドという2中立国に比しても,積極性の点ではるかに劣っていた中立国オーストリアの外交が〈クライスキー時代〉の到来とともににわかに積極的なものに変わる。SPÖは70年の選挙公約に積極中立外交というスローガンをかかげたが,早くも71年5月には,クライスキーは中国承認に踏み切る。
クライスキーは,オーストリアの裕福なユダヤ人の家庭に生まれたが,彼がとりわけ意欲を示したのは中東問題についてであり,しかもその際彼はユダヤ人の国家イスラエルに対して批判的な態度をとりつづけた。82年のイスラエルのレバノン進出を非難した彼は,イスラエル側から裏切者と呼ばれたほどである。彼は他の西側諸国に先駆けてPLO議長アラファトをウィーンに招いて,イスラエルによって故郷を追われたパレスティナ難民への理解を示し,PLOの国際的承認への道を開いた。アメリカに対しても,クライスキーは歯切れのよい批判を浴びせかけ,それでいながらレーガン大統領からもある程度の評価をかちとっていた。
外交のみならず,内政においてもクライスキーは強力な指導者であった。とくに,社会党の党内における彼の指導力は抜群のものがある。この党のなかにはO.バウアーに代表されるオーストリア・マルクス主義の流れを汲む極左派が無視できぬ勢力を保っていた。しかしクライスキーは,この極左派をおさえこむことに成功し,党を左寄りの路線から中道路線に引き戻したうえで,党全体にワンマンとして君臨しつづけた。
このようなクライスキーの引退を余儀なくさせ,〈クライスキー時代〉の幕を下ろすことになったのが83年4月24日の総選挙である。70年の第一党への躍進につづき71年から83年までの12年間にわたって,クライスキーのひきいるSPÖがつねに国会の過半数を占め,クライスキーを首相とするSPÖの単独内閣が維持されてきた。ところが,83年の総選挙で,SPÖは79年の95議席から90議席へと5議席を失った。SPÖの苦戦が予想されていたこの総選挙に勝利を収めることを目ざして,クライスキーは,自分の首相としての進退をこの総選挙の結果と結びつけるという危険な賭けに出た。すなわち,自分の政治手腕へのオーストリア国民の信頼はまだ失われていないと判断した彼は,SPÖがこの総選挙で従来どおりの絶対多数を獲得できない限り,首相の座にとどまらぬという意向を,総選挙の前に公表してしまったのである。この賭けは失敗に終わった。オーストリア経済の不振に対する国民の不安は,クライスキー個人への信頼よりも強かったのである。
他方,野党第一党のÖVPは81議席と4議席を増やす躍進ぶりを示し,野党第二党であったFPÖは,票数では79年より減少したにもかかわらず,オーストリアの複雑な選挙制度のおかげで,1議席を増やし12議席を獲得した。選挙前の約束に縛られたクライスキーは,引退を表明せざるをえなくなり,政局はにわかに緊張する。SPÖとÖVPとの二大政党の連立,ÖVPとFPÖとの連立などさまざまな可能性が論議されたが,結局,赤と青との連立と呼ばれる,SPÖとFPÖとの連立が実現することになった。クライスキーの後任の首相にはブルゲンラント出身で1971年以来文相の地位にあったジノワッツFred Sinowatz(1929- )が選ばれた。FPÖとしては,結党以来長年の夢であった政権への参加が,突如として実現し,副首相兼商相として,党首シュテーガーNorbert Stegerともう1名が入閣することになった。しかしながら,自由主義経済の原則のうえに立つ同党と,社会主義政党としてのSPÖとの連立政権の前途には多くの困難が予想された。
SPÖが絶対多数を割るにいたった原因としては,クライスキー個人に対する国民の不満よりは,むしろクライスキーのひきいる同党の経済政策,財政政策への国民の不安が決定的に作用したものと見られている。増大をつづける財政の赤字,同じく増えつづける租税負担に国民が不安を抱いたことが指摘されている。しかし,票のゆくえを分析した結果から見ると,SPÖの票を侵食したのは,対立する野党のÖVPではなく,当時の西ドイツの〈緑の党〉に相当する二つの組織,すなわち〈オーストリア緑の連合Vereinigte Grünen Österreichs(VGÖ)〉と〈オーストリア・オールタナティブ・リストAlternative Liste Österreichs(ALÖ)〉に同党支持層左派の票が流れたものと考えられる。ただし,総選挙前には両組織とも国会進出が確実と思われていたにもかかわらず,それぞれ1.93%,1.36%の得票にとどまり,いずれも国会進出を果たせずに終わった。〈オールタナティブ〉という用語は,現存の既成政党ならびに広くは現存の社会組織そのものとは別の,もうひとつの〈選択肢〉という意味をもっている。
大連立内閣
86年6月の大統領選挙で,野党ÖVPの推すワルトハイム前国連事務総長が当選したため,SPÖのジノワッツ首相は辞任し,同党のフラニツキーが首相を引き継いだ。同年9月,連立相手のFPÖが新党首に国家主義者のハイダーを選んだため,フラニツキーはFPÖとの連立を解消し,総選挙を半年繰り上げて11月に実施した。選挙結果はSPÖが80(10減),ÖVPが77(4減),FPÖが18(6増),VGÖ/ALÖが8(8増)となり,フラニツキー首相のSPÖは辛うじて第一党の地位を保った。フラニツキー首相はÖVPとの連立を図り,87年1月,二大政党による大連立内閣が発足した。
この大連立内閣では,フラニツキーは,ÖVP党首モックAlois Mockを副首相として内閣に迎え入れた。もともとフラニツキーは,選挙の後に辞任を申し出ていたが,大統領ワルトハイムKurt Waldhelm(1918- )から,オーストリアの戦後最初の内閣がそうであったような大連立内閣の路線を維持するように説得されて政権を担当する決意を固めたのである。しかし,前首相ジノワッツは,この大連立を,社会主義の理念への裏切りであるとして痛罵し,それまで首相辞任後もその任にとどまっていたSPÖ党首の地位を放棄した。90年の選挙ではSPÖは第一党の地位を維持したが,連立のパートナーのÖVPのほうは得票数でも議席数でも4分の1を失い,不振であった。ÖVPが失った分のほとんどを,FPÖが獲得した。フラニツキーは,これまでどおりの大連立政権を継続する。ところが,そのフラニツキーは,91年7月の下院での国会演説で,多くのオーストリア人が要職にある人々をも含めてヒトラーの第三帝国による弾圧,迫害に協力した事実を認め,大きな反響を呼び起こした。この衝撃的な演説の背景には,85年4月に,大統領候補で元外相,国連事務総長の要職を歴任したワルトハイムが,第2次世界大戦中に将校として従軍した際に,ユーゴスラビアでのナチによる犯罪行為に加担したのではないか,という疑惑が持ち上がった事件があった。オーストリアは戦後,独立国となり,第三帝国に合併されていたナチ統治下の時代については無関係という態度をとってきたが,ワルトハイム問題で,オーストリア国民が思い出したくない過去が,一時的にではあれ,ふたたび浮上し表面化したのである。
フラニツキーの国会演説の翌月の91年8月,オーストリア国民が待望していたヨーロッパ連合(EU)へのオーストリアの加盟が承認され,加盟は95年1月に実現することになる。憲法法規によって,特にソ連に対して中立を約束したオーストリアは,ソ連から中立義務違反であると非難されることを恐れて,加盟申請には踏み切れないでいた。しかし,ベルリンの壁の崩壊に象徴された89年の国際政治の地殻変動が,オーストリアの加盟申請を可能にした。94年10月の選挙では,右翼政党の進出が目だち,FPÖは下院での議席を33から42へと増やした。他方で,SPÖは15議席を失った。大連合内閣は,この選挙の後も第4次フラニツキー内閣として維持されたが,95年10月,96年度の国家予算審議の途中で,同内閣は崩壊する。原因は,予算をめぐる二大政党間の意見の不一致であり,大連合政府のこの大きな危機は,国家財政の赤字の累積が表面化することによってもたらされたものであった。またこの危機は,EU加盟後の情勢に対する国民の失望の結果でもあった。(デニス・ダービーシャー,イアン・ダービーシャーの共著《世界の政治システムPolitical Systemsof the World》1996年版による)。
95年10月13日に国会は解散され,12月に選挙が行われた。選挙の論点は,解散にいたる経過から当然,経済問題であり,外交問題,外国人流入問題などはその陰にかくれてしまった。このことは,外国人をオーストリアから排除せよと主張するハイダー党首にひきいられたFPÖには不利に作用した。
12月17日の選挙の結果は,国民が政治的安定を望んでいる事実を明確にする。SPÖは71名を当選させ6議席を増やした。ÖVPは53名を当選させただけで,1議席を増やすにとどまった。SPÖの勝利は,FPÖと,とりわけ緑の党2党(VGÖとALÖ)の議席を奪うことによって可能になった。前者は2議席を減らして40議席,後者は4議席を減らして9議席となった。この他に,〈リベラレス・フォールムLiberales Forum〉という政党があり,1議席を減らして10議席となっている。下院の議席総数は183であり,そのなかで女性議員は49名であった。投票率は85.98%,各党の得票は,SPÖが38.8%,ÖVPが29.0%,FPÖが21.9%,〈リベラレス・フォールム〉が5.5%,〈緑の党〉に相当する2党が4.9%であった。選挙後,4ヵ月にわたる話し合いの結果,96年3月7日にSPÖとÖVPの両党のあいだで,ふたたび大連立内閣を発足させることで合意が成立した。こうして第5次フラニツキー内閣が発足した(〈国際議員連盟(IPU)〉の資料による)。
経済,社会
経済,産業
第2次世界大戦後,オーストリア経済は,戦争の荒廃から急速に立ち直った。これは,オーストリア国民の努力によるとともに,1945年から48年までの間に主としてイギリス,アメリカなど諸国から3億7900万ドルに上る援助が提供されたことと,48年1月から55年3月までつづけられた総額9億6200万ドルに上る,マーシャル・プランによる援助が与えられたことによるところが大きい。通貨の安定(1953年5月3日,1ドル=26.08シリングと決められた)も,オーストリア経済の発展を助けた。国家条約による経済の自主性回復は,オーストリア経済にブームをもたらした。このような経済の繁栄のうえに,社会保障の拡充がはかられ,高度の福祉国家が出現するにいたった。社会福祉関係の支出は,72年から78年まで,ほぼ一貫して国家財政の約1/4を占め,しかもその支出額は,国家財政の膨張に比例して膨張をつづけている。
しかし,高度の福祉国家としてのこのような国家のあり方を維持することは,経済が不況に陥ったとき,きびしい試練にさらされる。83年4月の総選挙で,13年にわたったSPÖの単独政権が崩壊せざるをえなかった事実は,この試練のきびしさを如実に示すものである。クライスキー首相は,国家としての負債を増大させても,国民の働く職場を増大させるべきであり,また社会福祉を充実させるべきであるという立場をとり,公債発行高の激増,財政赤字の増加ということには,それほど抵抗を感じていなかったように思われる。けれども,オーストリア国民は,このような傾向に深刻な不安を抱いたようである。83年5月31日,クライスキーに代わった新首相ジノワッツは,最初の施政方針演説で,クライスキー時代の13年間に,財政の累積赤字が膨大な額に達するにいたった事実を,率直に認めざるをえなかった。今後のオーストリア財政の一つの重要な課題は,赤字の削減と社会福祉の維持・向上とを両立させてゆくことができるかどうかにある。社会福祉の重要な柱であるはずの年金に関しても,危険信号が発せられている。国家財政のなかで,年金保険は82年に3000億シリング以上の欠損が生じており,86年までには年5500億ないし6000億シリングの欠損が見込まれていたのである。年金のための掛金はヨーロッパのなかでも最も高い額に上っているので,これ以上掛金を引き上げることは不可能であり,国家財政の他の部門から穴埋めをするほかない。しかも,すべての基礎になる国家財政の改善は租税収入の増大なしでは不可能であろうと思われるにもかかわらず,租税収入の基礎となるはずの鉱工業の成長が79年ごろをピークとして頭打ちないしは低落傾向を示しているのである。このことを如実に物語るのが以下の事例である。
かつて,ヒトラーが自分の生れ故郷のブラウナウに近いリンツに建設した製鋼所であるヘルマン・ゲーリング工場Hermann-Göring-Werkeは,戦後オーストリア統一製鋼工場VÖESTとして国有化され,オーストリアの産業のなかでもとくに中心的な位置を占めるにいたっている。合邦時代,ヒトラーがヘルマン・ゲーリング工場の例に見られるように,オーストリアの工業化に熱心だったことは,皮肉にも今日のオーストリアを世界有数の高度の技術をもつ工業国として繁栄させることに貢献してきた。しかし,まさしく高度工業国家としてのオーストリアの繁栄を支える基幹というべきこのVÖESTが,世界的な鉄鋼不況の直撃を受けて,目下経営の危機に直面させられているのである。そのことを具体的に物語るのは,VÖESTの傘下の各種の企業のなかでもとくに枢要な位置を占めるフェースト・アルピネ株式会社VÖEST-Alpine AGの生産の停滞である。78年以降生産量は,粗鋼が380万~420万t,圧延鋼が300万~335万tの間を推移し,79年をピークとして下降線をたどっている。
他方で,インフレーションの進行は激しいものがあり,灯油,電気料金,ガス料金はいずれも1971-80年の10年間に2倍,石油は4倍という急カーブの値上りをつづけている。
1990年代に入ると不況はさらに深刻化し,95年は財政危機が政権の危機を招いたという点で注目される年となった。ハンデルスリーゼン消費組合の倒産をはじめとして,オーストリアにおける倒産は空前の規模に達した。倒産した大小の企業の負債総額は620億シリングを記録し,前年の負債総額が345億シリングに対して,75%以上の増加であった。
95年1月1日に実現したオーストリアのヨーロッパ連合EUへの加盟について,オーストリア国内では,加盟のもたらす経済的効果に対して,初めは過大な期待が寄せられたが,やがて冷たい現実への幻滅に変わった。期待された物価引下げの効果は,食料品部門にみられるにとどまった。
このように,オーストリアの経済には,さまざまな難問題がつきまとっているけれども,EU諸国のなかでオーストリアの失業率が際立って低いという事実だけは特筆しておかなければならない。1997年春現在,オーストリアの失業率はルクセンブルク3.6%につぐ4.4%である。EU加盟の結果,自由市場原則の浸透によって,オーストリアの失業率も〈西欧化〉し,EUの平均の水準に近づいてゆくというマイナス効果も予想されるのかもしれない。しかしむしろ,オーストリアの経済と政治との課題は,伝統的社会的パートナーシップによって達成された社会と経済の安定と平和を維持しながら,EU加盟によって加速されるであろう〈西欧化〉を,社会と経済の活性化に役立ててゆく,ということであろう。
環境問題
目下オーストリア国内で大きな社会問題となっているのは,他の先進工業諸国と同じように環境汚染の問題である。とくに,東チロルに建設されたツウェンテンドルフZwentendorf原子力発電所について,これを解体すべきかどうかということが,激しい論争をまきおこしている。この発電所の操業を開始すべきか否かについて,1978年11月5日に国民投票が行われた。最初,この問題についての国民の関心はあまり高くなかったが,投票の直前にクライスキー首相が,この投票の結果を自分の政治生命と結びつけて考える旨を示唆したために,にわかに国民の関心が高まった。クライスキーのひきいるSPÖは,操業開始を〈是〉とすることを国民に求めた。これに対し野党第一党のÖVPは,はっきり〈否〉と投票せよとは主張しなかったけれども,原子力発電によって生ずる廃棄物が環境汚染をひきおこさないかどうかという安全性の側面を重視すべきだという同党の立場は,むしろ〈否〉の投票を国民に促すものと受けとられた。野党第二党のFPÖは一貫して〈否〉を主張した。国民投票の結果はわずか3万票の差ではあるが同工場の操業に反対する票のほうが賛成の票を上回った。原子力発電促進を求めていたクライスキー政府は,この国民投票のあとでも,ツウェンテンドルフ問題についてはっきりした態度をとらなかった。ところが,83年の総選挙の結果,SPÖとFPÖとの連立政権が成立し,操業反対を主張しつづけてきたFPÖの党首シュテーガーが,ツウェンテンドルフ問題を管轄する商相の椅子に座ったことによって,この問題がにわかに先鋭化するにいたった。シュテーガーは予想されたとおり同工場の解体,スクラップ化に83年内にも着手する姿勢を見せていたが,これに対しては国内にかなり抵抗があった。
処理の困難な廃棄物を生み出すのは原子力発電所には限らない。そして,廃棄物による環境汚染問題に対してFPÖ以上に激しい態度を示しているのは,〈オーストリア緑の連合〉である。この緑の党は83年の総選挙で国会に進出することには成功しなかったが,依然として活発な動きをつづけている。83年7月には,リンツで,リンツ化学会社Chemie-Linz AGがトリクロロフェニルの生産を続行することに対して激しい抗議運動を展開し〈1kgのダイオキシンで5000万の死者が出る〉などというスローガンを掲げた横断幕を張って気勢を示した。トリクロロフェニルの生産によって生ずる廃棄物ダイオキシンについては,ヨーロッパ全体を騒がせた北イタリアの化学工場の土地汚染によって住民移転を余儀なくされた76年の〈ソベソSoveso事件〉の例がある。リンツ化学会社に対しては,〈緑の連合〉だけでなく,リンツ市やオーバーエスタライヒ州政庁からも強い警告が発せられており,結局同工場は生産の一時停止に踏み切らざるをえなくなった。そして,〈リンツ化学会社〉自体,未曾有の経営危機に見舞われているありさまである。また,西ドイツでも大問題になっている酸性の雨による森林の樹木の枯死という現象では,オーストリアでも多くの論議をよび,83年6月末,オーストリア政府は,酸性の雨が自国の工業による大気汚染に基づく事実を認め,全国的な実態調査に乗り出す方針を決定した。酸性の雨の被害はすでに20万haに及んでいる。こうして,経済・社会の領域でも,オーストリアは,不況,インフレーション,環境汚染など,世界の最先端の工業国に共通する難問に悩まされているのである。
教育
一般に教育水準は高く,大学については,多くの学部を有する総合大学が,ウィーン,グラーツ,インスブルック,ザルツブルク,リンツ,クラーゲンフルトの6校,単科大学としては,工科大学がウィーンとグラーツの2校,このほかに,レオーベン鉱山大学,ウィーン農業大学,ウィーン獣医大学,ウィーン経済大学の4校がある。さらに芸術に関する単科大学として,ウィーン造形美術大学,ウィーン応用美術大学,ウィーン音楽・表現美術大学,ザルツブルク音楽・表現美術大学(〈モーツアルト・ムゼウム〉),グラーツ音楽・表現美術大学,リンツ美術デザイン・工業デザイン大学の6校がある。総合と単科の一般の大学は,〈開かれた大学〉を目ざして発展を重ねている。〈開かれた大学〉とは,高校卒業資格さえあれば,入学者数を制限することをせずに志願者を全員受け入れ,しかも授業料は無料であるうえに,学習意欲のある者には各種の奨学金が豊富に提供されるといった大学のあり方を意味している。この点でドイツの大学のあり方と共通しているが,特定の学部学科に学生が殺到して悪い意味で大学が大衆化している点も共通している。ただし,オーストリアの大学もドイツの大学も,4年ぐらい在籍すれば卒業資格が与えられる,というのではなく,自分の目標とする何らかの資格を国家や州の試験に合格して獲得したとき,あるいは,学位を目ざす者は学位を獲得したときが,卒業ということになるので,日本の大学制度とはかなり異なっている。また,93年には大学の組織に関する連邦法が制定され,大学における教育と研究の評価を定期的に行い,その結果を公表することが義務付けられた。
95年には,同学年の青年男女の3分の1をこえる,3万人以上が大学進学資格を獲得した。大学進学資格とは,高校卒業資格達成を意味し,マトゥラントと呼ばれる。95年から96年にかけての冬学期に入学手続きをしたオーストリア人の新入生(留学生を除く)の数は約2万0100名,同学年の青年男女の約22%である。従来の新入生の最高の記録は87年から88年にかけての1万9725名であったが,それを上回っている。このような進学者数の増加傾向は今後も続くものとみられる(《オーストリア年報》1995年版による)。
執筆者:三宅 正樹
民俗,生活文化
オーストリアは,先史時代以来ヨーロッパの東西,そして南北交通路の要衝として,また塩,銅,鉄等の地下資源の豊富さと相まって,諸民族,諸種族の頻繁な来往と交替,そして混交が生じ,その結果きわめて多彩な文化潮流がオーストリアの社会生活を彩るにいたっている。その主軸をなす民族文化はゲルマン民族のバユバールBajuvar族であり,オーストリア西部のアレマン族,フランク族,南東部のスラブ族,そして先住民族のイリュリア人,ケルト人あるいはローマ人,この地を侵略したフン族,アバール族,マジャール人等の民族文化も入りまじり,現在ではキリスト教が支配宗教となっているが,異教的な諸文化も変貌しながら生活の微細な面にまで生き続け,オーストリアの民俗文化を多彩にしている。オーストリア民族文化は一つの複合文化であり,キリスト教文化圏の一環をなしているが,民俗文化レベルでみると異教文化との複合という様相が,たとえば年中行事のうちにも,はっきりと認められる。
オーストリアの秋は短く,冬は早い。11月は冬月または風の月といって,急速に日も短くなり,木の葉も落ち,暗く厳しい冬の到来を知らせる。この月は古来人間や作物にとっての害敵,悪霊や死霊が跳梁し始める月と信じられていた。11月2日の万霊節Allerseelenは元来は異教的な魂祭であり,農民の間では今も9月30日から11月8日まで死者に供献する風習がある。12月は危険で不気味な神秘に包まれた月とされていた。いわゆるラウフネヒテRauchnächteのある時期であり,仮面仮装の異形が現れ,横行する。12月6日は聖ニコラスの日で,夕方になると白衣の聖者ニコラスと黒衣の悪鬼クランプスKrampusが各戸を訪問し,子どもを脅かし叱るクランプスと,それをなだめ子どもに菓子を与えるニコラスの風景が展開する。12月13日はルツィアLuziaの日で,魔女の夜といわれ,家屋敷を香煙で清める。12月21日はトマスの日で,この日から神秘的な十二夜Zwölften,すなわちラウフネヒテが始まる。この夕方,主人は使用人と〈福は内,鬼は外〉にあたる言葉を唱え聖水・香煙で部屋を清めて回る。チロルでは農民は,このあと果樹園に行き,果樹を〈生命の木〉であるモミの木でたたき,〈木よ目を覚ませ〉と唱える。28日は汚れなき子どもの日で,子どもたちはモミの枝木で若い人妻や娘,家畜をたたき回り,繁殖と成長を祝する。正月は6日の三王の日Dreikönigtag(公現祭)が最初の祭日となる。この前夜でラウフネヒテの時期は終わり,新年が始まる。この前夜はペルヒトPerchtの夜といわれ,ペルヒトは老婆で死霊群を連れて出現すると信じられていた。夜が明けると華やかなファッシングFasching(カーニバル)の季節となり,ウィーンでは毎晩仮面舞踏会が開催され,聖灰節Aschermittwochまで2ヵ月つづく。ザルツブルクでは正月14日に仮面仮装の異形,ペルヒトが現れ,女・子どもを脅かし,食物や小銭をもらって歩く。春の到来を告げる2月になると悪魔は退散する。2月2日は聖燭節,農村では若者が鞭を畑で振るい,その鋭い音で悪魔払いをする。仮面仮装の行列が現れたり,クリスマス・ツリーの枝が村の広場でせり売りされ,縁起をかつぐ。聖灰節の前夜ファッシンググラーベンの行事があり,藁人形を葬い行列で泉や川に運び,投げ込む。これでファッシングの季節は終わり,春を迎える斎の時期に入り復活祭までつづく。復活祭は,ちょうど彼岸から4月の上旬ころにあり,人々はネコヤナギの小枝をマリア像やイエス像に供える。6月に入ると夏至が来るが,オーストリアでは火焚き行事が行われ,人々は卵の殻に小さなろうそくをつけ,灯をともして川に流す。日本のお盆の精霊流しと似ている。それがすむと秋が来て,ブドウ酒の新酒(ホイリゲHeurige)ができ,農家や居酒屋の門先に,モミの枝葉の束をつけた棒が,新酒を飲ませる目印として突き出されるようになる。こうして,また冬が来るのである。
首都ウィーンは人口の20%以上を占め,文化の面では,その比重はきわめて大きい。そして,農村の生活が古俗豊かで堅実,地味,朴とつであるのに比べて,ウィーンの典雅で華麗な雰囲気はまことに対照的である。その都市文化はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団や国立オペラ劇場,ブルク劇場あるいはフォルクスオペラ劇場,ウィーン少年合唱団の華やかな名声でもって最もよく象徴されるが,市民の生活を特徴づけるものはカフェカフェである。ウィーンはおそらくヨーロッパで一番の多い街である。市民にとってカフェは家の延長であり,そこで新聞を読み,手紙を書き,友と談論し,また商談も成立する。コーヒー1杯で何時間でもねばれるのである。ウィーン人によれば,コーヒーは〈ぬば玉の闇のごとく黒く,恋のごとく甘く,そして地獄のように熱く〉して飲まないといけないのだそうだ。この洗練した趣味感覚がオーストリアの生活文化に浸透して味わい深くしており,ドイツ文化の武骨なきちょうめんさとよい対照をなしている。人はときにそれをゲミュートリヒカイトGemütlichkeit(快さ)とよんで,ドイツ人のザッハリヒカイトSachlichkeit(きちょうめんさ)と対比している。これもこの国の多民族国家としての歴史に由来する独自な民族文化複合の所産とみてよいであろう。
執筆者:住谷 一彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報