チェチェン共和国(読み)チェチェン(英語表記)Chechnya

翻訳|Chechnya

共同通信ニュース用語解説 「チェチェン共和国」の解説

チェチェン共和国

イスラム教徒が多数を占めるロシア南部の共和国。ソ連崩壊直前の1991年に独立を宣言し、ロシア軍は94、99年の2度、制圧のため軍事進攻し紛争となった。公式統計はないが、犠牲者は10万人以上とも言われる。2000年代半ば以降、治安は改善し、ロシア国家テロ対策委員会は09年に対テロ作戦終了を宣言した。1999年の進攻時に連邦支持に転じたラムザン・カディロフ氏は、大統領だった父アフマト氏が04年に暗殺されたことを受け共和国の第1副首相に就任。07年4月に共和国大統領となり、11年3月、大統領を改称した首長に再任された。(グロズヌイ共同)

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改訂新版 世界大百科事典 「チェチェン共和国」の意味・わかりやすい解説

チェチェン[共和国]
Chechen

ロシア連邦南西部,北カフカスにある共和国。旧ソ連邦のもとでのチェチェンイングーシ自治ソビエト社会主義共和国Checheno-Ingushskaya ASSRが,1990年代初めにチェチェン共和国(地域名はチェチニャChechnya)とイングーシ共和国に分離したもの。両者を合わせた地域名はチェチェノ・イングーシェチアChecheno-Ingushetiyaで,その面積1万9300km2,人口157万(2002)。首都グロズヌイ(人口21万,2002)。大カフカス山脈中央部の北斜面に位置し,テレク川流域にステップが開ける。

ここでは上記の両地域を合わせて概観する。チェチェン人,イングーシ人は古来北カフカスの山地に住み,両言語はカフカス諸語のうちのナフ・グループを形成する。両族の名称はおもに居住した地名に由来する。考古学上の遺跡に富み,また7世紀の地誌に両族が言及されている。16世紀末,ダゲスタンよりイスラムが流入,19世紀前半に支配的宗教となる。18世紀末から併合をめざすロシア軍との間で激しいカフカス戦争を展開した。1818年ロシア帝国は要塞グロズナヤ(現在の主都グロズヌイ)を建設した。イスラム神秘主義の一派ミュリディズムを奉じる戦闘的教団が主導する北カフカス山岳諸民族の解放闘争は,30年代にダゲスタン,チェチェンにイマーム国家を形成するに至り,その指導者シャミーリの降伏(1859)まで続く。19世紀末にウラジカフカス鉄道が敷設され,グロズヌイの石油産業が発展する。革命,内戦を経て,1920年3月赤軍により解放される。22年11月30日チェチェン自治州,24年7月7日イングーシ自治州を形成し,34年1月15日に両自治州が合同,36年12月5日自治共和国となる。第2次世界大戦末期の43-44年,スターリンにより民族全体が中央アジア,カザフスタンへ強制移住させられたが,57年1月名誉回復,帰還が認められ,自治共和国が復活した。

チェチェンでは,1991年9月D.ドゥダエフが政権を奪取し,10月大統領に当選。チェチェン独立をとなえるドゥダエフの追い落しを狙って,ロシアのエリツィンは非常事態宣言や軍事的圧力に訴えた。反大統領派との内戦が始まり,94年12月ロシアがチェチェンに軍事侵攻して,激しい戦争となった。96年4月ドゥダエフは戦死した。夏からの交渉を経て,11月ロシア,チェチェンが相互関係に関する協定を締結した(チェチェン独立については5年間凍結で合意)。交渉代表をつとめたマスハドフが97年1月大統領選挙に勝利した。交渉は続いているがロシアとの緊張は依然として厳しい。91-92年イングーシ共和国が分離形成され,チェチェン共和国Chechenskaya Respublika(主都グロズヌイ)となった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チェチェン共和国」の意味・わかりやすい解説

チェチェン〔共和国〕
チェチェン
Chechnya

ロシア連邦南西部,北カフカスにあるロシア連邦の共和国。首都グロズヌイ。南東をダゲスタン共和国,南西をジョージア(グルジア)と接する。南部は大カフカス山脈中部北斜面,中部はテレク川とその支流スンジャ川が東流する丘陵地帯で,北部はノガイステップに入り,北から半砂漠,ステップ,森林ステップ,山地森林の各地帯に分かれる。北カフカス諸言語の東方語派に属する言語をもち,イスラム教徒の多いチェチェン人が人口の約 60%を占める。 1922年設立のチェチェン自治州と 1924年設立のイングーシ自治州が 1934年合併,1936年チェチェンイングーシ自治共和国となったのち,第2次世界大戦中の 1944年ドイツ軍に協力したという理由で廃国となったが,1957年復活。 1991年ソビエト連邦からの一方的分離独立を宣言,1992年西部のイングーシと分離してチェチェン共和国となる。 1994年独立を認めないロシアの侵攻を受け,1997年平和条約を締結したが,1999年再び侵攻を受けた (→チェチェン紛争 ) 。 2003年ロシア連邦残留と自治権の拡大を定める新憲法を国民投票で採択した。石油産地で,石油採取・精製業が発達し,カスピ海,黒海にパイプラインが延びる。ほかに機械 (電機,石油・化学工業用機械) ,木材加工,食品 (ワイン,果実・野菜缶詰) などの工業がある。農業ではスンジャ川,テレク川などの河川を利用する灌漑農業が発達し,ブドウその他の果樹,コムギ,テンサイ,ヒマワリ,野菜などが栽培され,北部ではヒツジの放牧が盛んである。ロストフナドヌーとアゼルバイジャンの首都バクーを結ぶ幹線鉄道,グロズヌイを中心として放射状に延びるハイウェーが主要交通路である。面積1万 5700km2。人口 110万 3000 (2002) 。

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世界大百科事典(旧版)内のチェチェン共和国の言及

【イングーシ[共和国]】より

…地域名はイングーシェチアIngushetiya。ソ連邦下ではロシア共和国内のチェチェン・イングーシ自治共和国の一部であった。チェチェン語,イングーシ語はカフカス諸語のナフ・グループ,宗教はイスラム。…

【ロシア連邦】より

…人口100万以上の民族を,多い方から順にあげると,ロシア人83.0%,タタール人3.8%,ウクライナ人2.3%,チュバシ人1.2%,バシキール人0.9%,ベラルーシ人0.7%,モルドバ(モルドビン)人0.6%となっている(人口比は1994年の部分的調査による)。 民族・言語の系統としては,多数を占めるロシア人,ウクライナ人,ベラルーシ人は東スラブ系であるが,タタール人,チュバシ人,バシキール人,ヤクート(サハ)人などはチュルク系(チュバシについてはフィン・ウゴル系という説もある)であり,そのほか,フィン・ウゴル系(モルドバ人,ウドムルト人,マリ人,コミ人など),カフカス系(チェチェン人,イングーシ人,アバール人など),イラン系(オセット人など),モンゴル系(ブリヤート人,カルムイク人など)といった諸民族がいる。宗教的には,東スラブ系は正教であり,ボルガ・ウラル地域および北カフカスの少数民族の間ではムスリムが相対多数だがキリスト教(正教)もかなり広まっている。…

※「チェチェン共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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