チェチェン(読み)ちぇちぇん(英語表記)Чечен/Chechen

日本大百科全書(ニッポニカ) 「チェチェン」の意味・わかりやすい解説

チェチェン
ちぇちぇん
Чечен/Chechen

ロシア連邦を構成する21共和国のうち、唯一ロシアからの独立を主張している共和国。正称チェチェン共和国Чеченская Республика/Chechenskaya Respublika。チェチニアともいう。ロシア南西部に位置する。1992年に分離したイングーシェチアとの間の境界線は未画定。人口79万7000(1998)。首都はグローズヌイ。チェチェンに居住する主要民族はチェチェン人で、宗教はイスラム教スンニー派。

[上野俊彦]

国土

国土は大カフカス山脈北側斜面の山地丘陵、チェチェン平野からなる。大カフカス山脈の分水嶺(ぶんすいれい)上を通る国境を挟んでその南側はジョージアグルジア)である。気候は大陸性気候で、平均気温は1月零下12℃~零下3℃、7月21℃~25℃。年降水量は300~1000ミリメートル。高度が上がるにつれ、ステップ平原(短草草原)から広葉樹林帯、さらに牧草地に変わる。

[上野俊彦]

経済・産業

おもな工業は、石油の採掘精製、石油化学、機械(石油採掘・精製設備、医療器具など)、食品加工、木材加工、軽工業、建築資材生産(セメントなど)。農業は、果樹、ブドウ、野菜、穀物(小麦、イネ)、ヒマワリサトウダイコンテンサイ)の栽培、ヒツジ、ウシ、ブタの牧畜が盛ん。木彫、石細工、金属工芸、刺しゅう、絨毯(じゅうたん)製造などの伝統産業もある。

[上野俊彦]

チェチェンとイングーシェチア

チェチェン人と西隣のイングーシェチアに居住するイングーシ人とは言語・文化的に共通性が多く、チェチェンとイングーシェチアは合併と分離を繰り返してきた。チェチェンは1859年イングーシェチアと併合してチェチェノ・イングーシェチアとなり、1921年1月ロシア連邦社会主義共和国に属する山岳自治ソビエト社会主義共和国に加わった。そして1922年11月にはイングーシェチアと分離してチェチェン自治州となったが、1934年ふたたびイングーシェチアと合併してチェチェノ・イングーシ自治州となり、1936年自治共和国に昇格した。第二次世界大戦中の1942~1943年ドイツ軍に占領され、ドイツ軍に協力したとされて1944年自治共和国は廃止され、住民は中央アジアに強制移住させられた。第二次世界大戦が終わって12年後の1957年チェチェノ・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国Чечено-Ингушская АССР/Checheno-Ingushskaya ASSRとして復活し、以来ロシア連邦内の自治国家としての地位を保ってきた。ソ連崩壊(1991年12月)に先だつ1990年11月共和国最高会議が国家主権宣言を採択、1991年チェチェノ・イングーシェチア(チェチェノ・イングーシ)共和国となった。同年9月チェチェン国民全国大会がチェチェン共和国の国家主権を宣言、10月27日共和国大統領選挙が実施されチェチェン人のジョハル・ドゥダエフDzakhar Dudaev(1944―1996)が選出されたが、イングーシ人は選挙をボイコット、ロシア連邦最高会議もこの選挙を違法とした。イングーシ人はチェチェンとの分離を要求、当初これに反対していたドゥダエフ政権も12月末には分離を承認、1992年ロシア連邦人民代議員大会がチェチェン共和国とイングーシェチア共和国との分離を決定した。

[上野俊彦]

チェチェン紛争

ドゥダエフ政権は1992年3月のロシア連邦の連邦条約に調印せず、ロシアからの分離独立を目ざした。しかし、1993~1994年にはチェチェン国内の反ドゥダエフ派が武装蜂起(ほうき)、チェチェンは深刻な社会的・政治的危機に陥った。1994年12月チェチェンにおける秩序回復を掲げてロシア連邦軍が軍事介入し、ドゥダエフ派による武力抵抗も全面的軍事行動に拡大した。これがいわゆるチェチェン紛争である。1995年以降、軍事行動の終結と、政治的手段と交渉による係争問題解決への努力がなされ、1996年8月和平合意が成立し、1997年1月にはロシア軍は全面撤退、同月大統領選挙が行われマスハドフが当選した。しかし、独立を認めないロシアとの緊張関係は続き、ロシアのエリツィン政権は1999年9月末ふたたび大規模な軍隊をチェチェンに展開した。2000年6月ロシアのプーチン政権はチェチェンに共和国臨時行政府を設置し、イスラム教指導者のカディロフAkhmad Kadyrov(1951―2004)を行政長官に任命、ロシア連邦大統領による直轄統治を導入した。2002年1月、ロシアとの戦争状態のうちにマスハドフの任期満了。2003年3月、チェチェン共和国がロシアの一部であると明記した憲法が住民投票により採択、同年10月大統領選挙が行われ、親ロシア派のカディロフが当選した。2004年5月、爆破テロにより、カディロフは死亡、首相のアブラモフSergei Borisovich Abramov(1972― )が大統領代行に就任したが、同年8月には繰り上げ大統領選挙が行われ、10月アルハノフが大統領に就任した。2005年11月には1999年のロシア侵攻以来とだえていた共和国議会選挙が行われ、与党の統一ロシアが第1党となった。2007年2月アルハノフは任期を残し辞任、同年3月にカディロフの次男のラムザン・カディロフRamzan Kadyrov(1976― )が議会から新大統領として承認され、4月に就任。親ロシア派の政権が続いている。しかし、その間もチェチェン独立派武装勢力によるとみられる大規模なテロ事件が発生。同8月には民間航空機連続爆破テロ事件、モスクワ市の地下鉄リガ駅周辺における自爆テロ事件があった。また9月1~3日には、ロシア連邦北オセチア共和国のべスランで武装グループが学校を占拠、人質をとりロシアにチェチェンからの撤退を要求した。ロシア治安部隊に制圧されたが、1000人以上の人質のうち300人以上が犠牲(うち半数以上が子供)となった。2005年3月にはチェチェン北部でロシア連邦軍などとの戦闘により元大統領のマスハドフが死亡、その後も2006年に独立派指導者のサドゥラエフ(1966―2006)とバサエフShamil Basayev(1965―2006)がロシア治安部隊により殺害されているが、新指導者の台頭もあり今後の独立派武装勢力の動きが懸念されている。

[上野俊彦]

『林克明著『カフカスの小さな国――チェチェン独立運動始末』(1997・小学館)』『山内昌之著『文明の衝突から対話へ』(岩波現代文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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