ネストリウス派(読み)ネストリウスハ

デジタル大辞泉 「ネストリウス派」の意味・読み・例文・類語

ネストリウス‐は【ネストリウス派】

ネストリウスの説を支持するキリスト教一派シリアペルシアからアジア各地に布教インドに伝えられて聖トマス派となり、630年代に中国に伝えられて景教とよばれた。

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精選版 日本国語大辞典 「ネストリウス派」の意味・読み・例文・類語

ネストリウス‐は【ネストリウス派】

  1. 〘 名詞 〙 ネストリウスを祖とするキリスト教の一派。キリストの神性人性分離を強調する。シリア、ペルシア、インド、中国に伝えられ、中国では景教と称された。

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改訂新版 世界大百科事典 「ネストリウス派」の意味・わかりやすい解説

ネストリウス派 (ネストリウスは)

エフェソス公会議(431)におけるネストリウス断罪に同意しなかったシリアのキリスト教徒が形成した教派。ペルシアを中心に,海路インド,陸路中央アジア,シベリア,中国まで拡大したが,13世紀末に衰退した。自称は東方教会だが,アッシリア教会とも呼ばれ,近世カトリック教会と合同した一派はカルデア教会と呼ばれる。教義の面ではアンティオキア学派の神学者モプスエスティアのテオドロス,ネストリウスなどの教えを発展させ,キリストにおける神性と人性の独立性を強調し,両者の結びつきを実体的ではなく,道徳的にしか考えない傾向があった。そのためカルケドン派教会から異端とされた。初期の有能な指導者バル・サウマーは,ローマ帝国の弾圧を逃れて,5世紀中葉にシリアのエデッサからペルシア領ニシビスに達し,ここに神学校を設けて拠点とした。バル・サウマーはペーローズ王の厚遇を得て,ネストリウス派をペルシアにおける支配的キリスト教派となし,ベート・ラパト会議(484)で公式にネストリウス主義が受けいれられることになった。6世紀には修道制も確立した。

 イスラムの支配下にあってもネストリウス派は繁栄を続け,特にギリシア語文献の翻訳者,医師,技術者としてイスラム文化の形成に貢献した。なかでもアッバース朝下に活躍したフナイン・ブン・イスハークは有名である。ネストリウス派教会首長カトリコスと呼ばれるが,5世紀末から東方総主教と称した。その座所はセレウキア・クテシフォンにあったが,アッバース朝時代にバグダードに移った。典礼用語はシリア語で,それは布教地においてもだいたい保たれた。布教活動は同教派の黄金時代を現出した東方総主教ティモテオス1世の時代,すなわち8世紀後半から9世紀初頭にかけてもっとも盛んであった。アラビア半島から海路インド南部に達し,大きな勢力を築いたほか,北方の陸路を伝わっては中央アジアから中国までのほぼ全域に及んだ。中国に7世紀前半に伝わったネストリウス派は景教の名で知られるが,中国では教勢は伸びなかった。ただモンゴル族とトルコ・タタール系民族のあいだで改宗者を得たことは,のちのモンゴル軍の征服の際にネストリウス派にとって有利に働いたが,モンゴル系諸国家のイスラム化とともに急激に衰退した。近世においてローマ教会の働きかけで一部のネストリウス派が合同教会(カルデア教会)を形成した。クルディスタンに逼塞(ひつそく)していたネストリウス派は19世紀にアッシリア人の発見として世界に知られたが,勢力はごく限られている。
景教
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百科事典マイペディア 「ネストリウス派」の意味・わかりやすい解説

ネストリウス派【ネストリウスは】

コンスタンティノープル主教(在位428年―431年)ネストリウスNestorius(ギリシア名ネストリオス)の教説を発展させたシリアのキリスト教の一派。〈アッシリア教会〉とも,近世にカトリックと合同した教派は〈カルデア教会〉とも呼ばれる。マリアの尊称〈テオトコス(神の母)〉がキリストの完全な人性を損なうとしてこれに反対,431年エフェソス公会議で断罪されたネストリウスの支持者が形成した教会で,ササン朝ペルシア,イスラム世界で教勢を伸ばし,7世紀には中国に至って景教と呼ばれた。教徒は特にアッバース朝下,ギリシア語文献の翻訳者,医師などとして活躍,東西文化の交流に貢献したことは特筆される。
→関連項目ササン朝

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ネストリウス派」の解説

ネストリウス派(ネストリウスは)

ネストリウスを祖とするキリスト教の一派。ネストリウスがエフェソス教会会議で追放されたのち,その支持者はシリアのエデッサを中心として活動し,その後正統派の圧迫を逃れてペルシアに移り,ニシビスを中心として発展した。5世紀末以後セレウキア,クテシフォンに総大司教座を設け,教学,社会施設に力を注いだ。さらにアラビア,トルキスタン,インドに宣教師を送り,アラホン(阿羅本)によって中国にも伝えられ,景教と呼ばれた。のちイスラーム教に圧迫され,衰退と分裂を招いたが,今日なおアッシリア教会として,イラン,イラクに信者を持っている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ネストリウス派」の解説

ネストリウス派
ネストリウスは

ネストリウス

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世界大百科事典(旧版)内のネストリウス派の言及

【異端】より

…ヨーロッパにおいて,異端が問題となるのは,歴史的には,キリスト教の確立以降である。排他性のつよい一神教であるキリスト教にあっては,すでに2世紀から異端問題が発生し,とりわけ4世紀にキリストの属性をめぐる論争において,アリウス派,ネストリウス派などの異端が生まれた。ギリシア正教においても異端が生まれたが,ローマ・カトリック教会ではその後,中世11~15世紀にワルド派カタリ派をはじめとする多数の異端運動が起こり,キリスト教会を動揺させた。…

【キリスト教】より

…これにはアレクサンドリア主教アタナシオスの超人的な努力とカッパドキア教父の調停が必要であった。続いて,キリストが完全なる神であると同時に完全なる人間であるとのキリスト論に対する疑念が現れ,ネストリウス派と単性論派という対照的な異端を生んだ。この問題はカルケドン公会議(451)で決着がつき,〈カルケドン信条〉がキリストの完全な両性を規定した。…

【景教】より

…大秦景教ともいい,キリスト教ネストリウス派に対する中国でのよび名。ネストリウスが,キリストやマリアの神性を弱めると解されかねない説を主張したため,431年のエフェソス公会議で異端と決定され追放されると,東方に教圏をもとめ,まずイランの地でかなり栄え,ついでさらに遠く中国に至ったのである。…

【ネストリウス】より

…現在では,ネストリウスの教説は,キリストの神性と人性の結びつきを示す術語の曖昧(あいまい)さを除けば,特に異端とするものでもなく,その失脚は政治的なものであったと考えられている。なお,ネストリウス派は彼の教えをさらに発展させた教団であって,ネストリウス自身が創建した分派ではない。ネストリウス派【森安 達也】。…

【ラフム朝】より

…その子アムルはタラファ,ハーリス,アムルなどの詩人を保護したことで有名。最後の王ヌーマーン3世はネストリウス派のキリスト教に改宗したが,602年ササン朝皇帝ホスロー2世によって廃され,ラフム朝は滅びた。その後ヒーラはササン朝の直接支配を受け,633年アラブによって征服された。…

※「ネストリウス派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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