ネストリウス派(読み)ネストリウスは(英語表記)Nestorians

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ネストリウス派」の意味・わかりやすい解説

ネストリウス派
ネストリウスは
Nestorians

歴史的には,コンスタンチノープル総大司教ネストリウスの教説に対するエフェソス (431) ,カルケドン (451) 両会議の断罪を拒絶した小アジア,シリアキリスト教一派。3世紀中頃よりエデッサを中心にキリスト教団が発達したが,ニシビスの首都大司教バルスマスの影響で,486年ネストリウス主義を受入れ,エデッサの学校が抵抗の中心となった。皇帝命で学校が 489年に閉鎖されると,ニシビスに移動,学派が形成され,ペルシアアラビアエジプト,インド,中国にまで教勢を広げた。中国では景教と呼ばれて7~10世紀に栄え,中央アジアでは一部のタタール族に伝わり,バイカル湖にまで達した。 13世紀後半,モンゴルがイスラムに改宗したのち衰え,14世紀にはチムール帝によってほとんど滅ぼされた。ネストリウス教会として知られるアッシリア派は,イラク,シリア,イラン等におそらく 17万ほどの信徒を擁している。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ネストリウス派」の意味・わかりやすい解説

ネストリウス派
ねすとりうすは
Nestorians
Nestorianism

神学者イバスなどを中心とするネストリウスのキリスト論の共鳴者。キリストの神性と人性を区分するネストリウスを異端と断罪したエフェソス公会議(431)後、彼の考えを支持する人々はいわゆるネストリウス派の教会を設立する。彼らはローマ帝国内で迫害されたが、シリアでも多くの信奉者がおり、ペルシアで保護された。6世紀初頭から活発な宣教活動がペルシアを中心として広範囲にわたって展開される。7世紀には彼らは中国(唐)、アラビア、南インドにも入り定住地を設立するようになる。

 ネストリウス派の教会はトルコとペルシアの国境地域、またインドにも歴史の風雪に耐え、統治者の迫害にもかかわらず数世紀にわたって存続してきた。中国においてはネストリウス派のキリスト教は景教とよばれ、わが国とも古くから関係がある。

[中沢宣夫]

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百科事典マイペディア 「ネストリウス派」の意味・わかりやすい解説

ネストリウス派【ネストリウスは】

コンスタンティノープル主教(在位428年―431年)ネストリウスNestorius(ギリシア名ネストリオス)の教説を発展させたシリアのキリスト教の一派。〈アッシリア教会〉とも,近世にカトリックと合同した教派は〈カルデア教会〉とも呼ばれる。マリアの尊称〈テオトコス(神の母)〉がキリストの完全な人性を損なうとしてこれに反対,431年エフェソス公会議で断罪されたネストリウスの支持者が形成した教会で,ササン朝ペルシア,イスラム世界で教勢を伸ばし,7世紀には中国に至って景教と呼ばれた。教徒は特にアッバース朝下,ギリシア語文献の翻訳者,医師などとして活躍,東西文化の交流に貢献したことは特筆される。
→関連項目ササン朝

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デジタル大辞泉 「ネストリウス派」の意味・読み・例文・類語

ネストリウス‐は【ネストリウス派】

ネストリウスの説を支持するキリスト教の一派。シリア、ペルシアからアジア各地に布教。インドに伝えられて聖トマス派となり、630年代に中国に伝えられて景教とよばれた。

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精選版 日本国語大辞典 「ネストリウス派」の意味・読み・例文・類語

ネストリウス‐は【ネストリウス派】

〘名〙 ネストリウスを祖とするキリスト教の一派。キリストの神性と人性の分離を強調する。シリア、ペルシア、インド、中国に伝えられ、中国では景教と称された。

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世界大百科事典 第2版 「ネストリウス派」の意味・わかりやすい解説

ネストリウスは【ネストリウス派】

エフェソス公会議(431)におけるネストリウス断罪に同意しなかったシリアのキリスト教徒が形成した教派。ペルシアを中心に,海路インド,陸路中央アジア,シベリア,中国まで拡大したが,13世紀末に衰退した。自称は東方教会だが,アッシリア教会とも呼ばれ,近世にカトリック教会と合同した一派はカルデア教会と呼ばれる。教義の面ではアンティオキア学派の神学者モプスエスティアのテオドロス,ネストリウスなどの教えを発展させ,キリストにおける神性と人性の独立性を強調し,両者の結びつきを実体的ではなく,道徳的にしか考えない傾向があった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ネストリウス派」の解説

ネストリウス派
ネストリウスは

ネストリウス

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世界大百科事典内のネストリウス派の言及

【異端】より

…ヨーロッパにおいて,異端が問題となるのは,歴史的には,キリスト教の確立以降である。排他性のつよい一神教であるキリスト教にあっては,すでに2世紀から異端問題が発生し,とりわけ4世紀にキリストの属性をめぐる論争において,アリウス派,ネストリウス派などの異端が生まれた。ギリシア正教においても異端が生まれたが,ローマ・カトリック教会ではその後,中世11~15世紀にワルド派カタリ派をはじめとする多数の異端運動が起こり,キリスト教会を動揺させた。…

【キリスト教】より

…これにはアレクサンドリア主教アタナシオスの超人的な努力とカッパドキア教父の調停が必要であった。続いて,キリストが完全なる神であると同時に完全なる人間であるとのキリスト論に対する疑念が現れ,ネストリウス派と単性論派という対照的な異端を生んだ。この問題はカルケドン公会議(451)で決着がつき,〈カルケドン信条〉がキリストの完全な両性を規定した。…

【景教】より

…大秦景教ともいい,キリスト教ネストリウス派に対する中国でのよび名。ネストリウスが,キリストやマリアの神性を弱めると解されかねない説を主張したため,431年のエフェソス公会議で異端と決定され追放されると,東方に教圏をもとめ,まずイランの地でかなり栄え,ついでさらに遠く中国に至ったのである。…

【ネストリウス】より

…現在では,ネストリウスの教説は,キリストの神性と人性の結びつきを示す術語の曖昧(あいまい)さを除けば,特に異端とするものでもなく,その失脚は政治的なものであったと考えられている。なお,ネストリウス派は彼の教えをさらに発展させた教団であって,ネストリウス自身が創建した分派ではない。ネストリウス派【森安 達也】。…

【ラフム朝】より

…その子アムルはタラファ,ハーリス,アムルなどの詩人を保護したことで有名。最後の王ヌーマーン3世はネストリウス派のキリスト教に改宗したが,602年ササン朝皇帝ホスロー2世によって廃され,ラフム朝は滅びた。その後ヒーラはササン朝の直接支配を受け,633年アラブによって征服された。…

※「ネストリウス派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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