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景教 けいきょうJing-jiao

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

景教
けいきょう
Jing-jiao

5世紀,コンスタンチノープル (現イスタンブール) の司教ネストリウスによって唱えられたキリスト教の一派 (→ネストリウス派 ) の中国名。シリア,メソポタミアからイラントハリスタン (現アフガニスタン北部) ,中央アジアなどを経て7世紀初め中国に伝わり,寺院は波斯寺,のちには大秦寺と呼ばれて,一時はかなりの信者があったが,武宗の迫害追放にあってまもなく衰えた。建中2 (781) 年に唐の都,長安 (西安) に建てられた「大秦景教流行中国碑」はその教勢を物語る。その後,元の時代にモンゴル地方に信者がいたことも,発掘された墓碑などによってうかがわれる。 20世紀初め以来の各国の中央アジア探検隊により,ソグド語,トルコ語に訳されたネストリウス派の経典の断簡が東トルキスタンで発見されている。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

景教

古代キリスト教の教派の一つ。聖母マリアが神の母であることを否定するなど、キリストやマリアの神性を弱めかねない主張だったため、キリスト教主流派から異端とされ、東方に移動した。635年、ササン朝ペルシャの宣教師を通じて唐に伝来王朝が公認し、長安に波斯(はし)寺(のち大秦寺と改称)が建設され、781年、景教教義や伝来の由来を記した「大秦景教流行中国碑」が長安の大秦寺に建立された。845年の会昌の廃仏で禁圧され、衰退した。

(2016-09-22 朝日新聞 朝刊 文化文芸)

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デジタル大辞泉の解説

けい‐きょう〔‐ケウ〕【景教】

ネストリウス派キリスト教の中国での呼称代初期、中国に伝わり、長安を中心に布教され栄えたが、9世紀、武宗の弾圧によって衰えた。のちモンゴル人の朝がたつと再び興ったが、14世紀に衰滅。大秦景教。

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百科事典マイペディアの解説

景教【けいきょう】

キリスト教ネストリウス派の中国での呼称。〈大秦景教〉とも。635年ペルシア人アラホン(阿羅本)により伝えられ,638年伝道を許可され,諸州に寺院(波斯寺,大秦寺)が建てられた。
→関連項目大秦寺プレスター・ジョン伝説

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世界大百科事典 第2版の解説

けいきょう【景教 Jǐng jiào】

大秦景教ともいい,キリスト教ネストリウス派に対する中国でのよび名。ネストリウスが,キリストやマリアの神性を弱めると解されかねない説を主張したため,431年のエフェソス公会議で異端と決定され追放されると,東方に教圏をもとめ,まずイランの地でかなり栄え,ついでさらに遠く中国に至ったのである。中国には,唐の太宗治世の635年(貞観9),ペルシア僧のアラホン(阿羅本)を団長とする伝道団が堂々と長安に到着するや,太宗は宰相の房玄齢らをして宮中に迎えしめ,その経典の翻訳を勅許し,布教を勧めた。

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大辞林 第三版の解説

けいきょう【景教】

ネストリウス派キリスト教の中国での呼称。アラボン(阿羅本)らによって唐代中国に伝えられ、唐の王室および元の王朝の庇護ひごを受けて一時盛行した。781年建立の「大秦景教流行中国碑」が残る。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

景教
けいきょう

キリスト教で中国に最初に伝来したネストリウス派Nestorianismのこと。ネストリウスはエフェソスの宗教会議(431)でその説が異端とされて追放されたが、彼の一派はのちにペルシアで発展し、阿羅本(あらほん)によって唐(とう)の都長安に伝えられた(635)。初め波斯(はし)(ペルシア)経教といったが、やがて大秦(たいしん)景教あるいは景教と称するようになり(大秦はローマ帝国。景は光り輝くの意)、その教会の名称も波斯寺から大秦寺となった。唐王朝の保護を得て各地に大秦寺が建立されて教勢の盛んなときもあったが、武宗皇帝による845年の仏教禁圧の巻き添えを食って衰え、元(げん)王朝の時代に多少盛り返したが、元の滅亡とともに中国から姿を消した。キリスト教の理解や布教のために儒教・仏教・道教の用語が使われたことが、「大秦景教流行中国碑」(781年建立。久しく土中に埋もれていたが1625年に発掘)の碑文や20世紀の初め敦煌(とんこう)の石室から発見された漢文の経典類からうかがうことができる。[冨倉光雄]
『佐伯好郎著『景教の研究』(1935・東京東方文化学院) ▽溝口靖夫著『東方文化史上の基督教』(1941・理想社出版部) ▽神直道著『景教入門』(1981・教文館)』

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世界大百科事典内の景教の言及

【キリスト教】より

…布教の経路は,北のクルディスターンからいわゆるシルクロードを通って中央アジア,トルキスタン,中国,モンゴル,シベリアに及ぶ陸路とアラビア半島からインドに達する海路の二つがあった。635年に長安(西安)に達したネストリウス派教会は景教の名で知られる。中国では勢力が伸びなかったが,のちこの教派を優遇したモンゴル人の元の時代に多少の拡大を見た。…

【東西交渉史】より

…このルートを通って,西暦紀元前後には仏教が中国に伝来し,2世紀以降,中国人の精神生活に大きな影響を与えたが,2世紀の後漢の都洛陽では,仏教のみならず,衣食住および芸能の分野でも〈胡風〉と呼ばれた西域趣味が流行した。このルートは,ひき続き盛んに利用され,5~6世紀にはゾロアスター教(祆(けん)教),7世紀前半にはネストリウス派キリスト教(景教),7世紀末にはマニ教(摩尼教)などイラン系の諸宗教がこのルートを通じて相ついで中国に流入した。また,それとほぼ時を同じくして,イランの美術工芸の伝統も中国に伝えられ,異国趣味にあふれた美術工芸品を生んだ。…

【ネストリウス派】より

…アラビア半島から海路インド南部に達し,大きな勢力を築いたほか,北方の陸路を伝わっては中央アジアから中国までのほぼ全域に及んだ。中国に7世紀前半に伝わったネストリウス派は景教の名で知られるが,中国では教勢は伸びなかった。ただモンゴル族とトルコ・タタール系民族のあいだで改宗者を得たことは,のちのモンゴル軍の征服の際にネストリウス派にとって有利に働いたが,モンゴル系諸国家のイスラム化とともに急激に衰退した。…

※「景教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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