大秦景教ともいい,キリスト教ネストリウス派に対する中国での呼び名。ネストリウスが,キリストやマリアの神性を弱めると解されかねない説を主張したため,431年のエフェソス公会議で異端と決定され追放されると,東方に教圏をもとめ,まずイランの地でかなり栄え,ついでさらに遠く中国に至ったのである。中国には,唐の太宗治世の635年(貞観9),ペルシア僧のアラホン(阿羅本)を団長とする伝道団が堂々と長安に到着するや,太宗は宰相の房玄齢らをして宮中に迎えしめ,その経典の翻訳を勅許し,布教を勧めた。3年後には長安の義寧坊に一寺を建立させ,僧21人を出家させた。つぎの高宗も景教を保護し,諸州にその寺院をおかせ,アラホンを崇(たつと)んで鎮国大法主とした。仏教に傾斜した則天武后の治世には少し衰えたが,玄宗によって保護され,アブラハム(羅含)やガブリエル(及烈)といった有力な僧侶によって大いに教線を拡大した。
当初はこの教えを波斯経教,その寺院を波斯寺,つまりペルシア人の宗教と呼んできたが,発生の地がペルシアではなく大秦国であることを知り,745年(天宝4)には詔によって波斯寺を大秦寺と改めることになった。ひきつづき粛宗・代宗・徳宗の治世に優遇され,781年(建中2)には,篤信の居士イズドブジド(伊斯)の出資によって《大秦景教流行中国碑》が建てられたのである。この碑によって初伝以来の中国における盛衰の跡をたどることができる。この碑は,明の天啓年間(1621-27)に偶然に発見されてから内外の注目をひき,今は西安の陝西省博物館内の碑林に陳列されているが,その複製は京都大学文学部陳列館と高野山にある。なお西方からの伝教士ガブリエルが玄宗の恩寵をえて布教に便せんと奇器異巧を造って献上し,非難されているが,これなど,明末のイエズス会宣教師マテオ・リッチらが天文儀器や時計などを朝廷に献上したことの先駆といえよう。唐の武宗が845年(会昌5)の会昌の廃仏(三武一宗の法難)の際,外来の宗教をも一律に禁断したので,景教も迫害されることになり,急速に衰え,宋初には景教徒の姿は中国本土では見かけられないまでになった。しかし西北辺境方面や中央アジアではその信仰が維持され,11世紀にはモンゴル族のケレイト部やトルコ族のオングート部に多数の信者を擁していたため,ケレイト部と通婚したチンギス・ハーン家にも多くの信者を出した。したがって,モンゴル族がユーラシアにまたがる世界帝国を建設し,あらゆる宗教に寛容な態度をとると,ふたたび中原にあらわれ,今度は〈也里可温(エルケウン)〉あるいは〈達婆〉〈迭屑〉と呼ばれたが,いずれもペルシア語のタルサ,神を怕(おそ)れる人,の意味といわれる。とにかく元朝にあっては長江(揚子江)下流域にも相当の信徒がいたのであって,1289年(至元26)以後,崇福司という官庁を設けて事務を管掌させた。しかし,明朝が興ると,いっさいのキリスト教が禁断され,ネストリウス教徒も後を絶ったのである。
→ネストリウス派
執筆者:礪波 護
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キリスト教で中国に最初に伝来したネストリウス派Nestorianismのこと。ネストリウスはエフェソスの宗教会議(431)でその説が異端とされて追放されたが、彼の一派はのちにペルシアで発展し、阿羅本(あらほん)によって唐(とう)の都長安に伝えられた(635)。初め波斯(はし)(ペルシア)経教といったが、やがて大秦(たいしん)景教あるいは景教と称するようになり(大秦はローマ帝国。景は光り輝くの意)、その教会の名称も波斯寺から大秦寺となった。唐王朝の保護を得て各地に大秦寺が建立されて教勢の盛んなときもあったが、武宗皇帝による845年の仏教禁圧の巻き添えを食って衰え、元(げん)王朝の時代に多少盛り返したが、元の滅亡とともに中国から姿を消した。キリスト教の理解や布教のために儒教・仏教・道教の用語が使われたことが、「大秦景教流行中国碑」(781年建立。久しく土中に埋もれていたが1625年に発掘)の碑文や20世紀の初め敦煌(とんこう)の石室から発見された漢文の経典類からうかがうことができる。
[冨倉光雄]
『佐伯好郎著『景教の研究』(1935・東京東方文化学院)』▽『溝口靖夫著『東方文化史上の基督教』(1941・理想社出版部)』▽『神直道著『景教入門』(1981・教文館)』
中国でネストリウス派キリスト教を呼ぶ名。635年,ペルシア人阿羅本(あらほん)の率いる最初の伝道団が長安を訪れ,布教を許されて,長安,洛陽その他に波斯寺(はしじ)を設けたが,これはのち大秦寺(たいしんじ)と改められた。781年長安の大秦寺に中国伝道の歴史を記した大秦景教流行中国碑が建てられた。唐末の会昌の廃仏で景教も禁じられ衰えたが,この碑は明末に地中から発見され反響を呼んだ。中国で衰えた景教は元代モンゴル人の一部に残っていて,中世ヨーロッパではこれが聖ジョン伝説と結びつけられた。
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…布教の経路は,北のクルディスターンからいわゆるシルクロードを通って中央アジア,トルキスタン,中国,モンゴル,シベリアに及ぶ陸路とアラビア半島からインドに達する海路の二つがあった。635年に長安(西安)に達したネストリウス派教会は景教の名で知られる。中国では勢力が伸びなかったが,のちこの教派を優遇したモンゴル人の元の時代に多少の拡大を見た。…
…このルートを通って,西暦紀元前後には仏教が中国に伝来し,2世紀以降,中国人の精神生活に大きな影響を与えたが,2世紀の後漢の都洛陽では,仏教のみならず,衣食住および芸能の分野でも〈胡風〉と呼ばれた西域趣味が流行した。このルートは,ひき続き盛んに利用され,5~6世紀にはゾロアスター教(祆(けん)教),7世紀前半にはネストリウス派キリスト教(景教),7世紀末にはマニ教(摩尼教)などイラン系の諸宗教がこのルートを通じて相ついで中国に流入した。また,それとほぼ時を同じくして,イランの美術工芸の伝統も中国に伝えられ,異国趣味にあふれた美術工芸品を生んだ。…
…アラビア半島から海路インド南部に達し,大きな勢力を築いたほか,北方の陸路を伝わっては中央アジアから中国までのほぼ全域に及んだ。中国に7世紀前半に伝わったネストリウス派は景教の名で知られるが,中国では教勢は伸びなかった。ただモンゴル族とトルコ・タタール系民族のあいだで改宗者を得たことは,のちのモンゴル軍の征服の際にネストリウス派にとって有利に働いたが,モンゴル系諸国家のイスラム化とともに急激に衰退した。…
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