テオドロス(その他表記)Theodōros

改訂新版 世界大百科事典 「テオドロス」の意味・わかりやすい解説

テオドロス(モプスエスティアの)
Theodōros
生没年:350ころ-428

アンティオキア学派神学者,聖書解釈学者。キリキアのモプスエスティアMopsouestia主教(392より)。ネストリウスの師とされる。聖書の解釈にあたっては,アレクサンドリア学派の比喩的解釈を退け,一語一句に対する厳密な歴史的解釈を主張した。キリストの受肉に関する教えがエフェソス公会議(431)で非難され,のち第2コンスタンティノープル公会議(553)でいわゆる〈三章〉(三章問題)のひとりとしてネストリウス的異端のかどで弾劾された。しかし現在ではテオドロスの正統信仰は疑いないものとされている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「テオドロス」の意味・わかりやすい解説

テオドロス[モプスエスティア]
Theodōros; Theodore of Mopsuestia

[生]350頃.アンチオキア
[没]428/429. キリキア,モプスエスティア
アンチオキア学派の代表的神学者。当初法律家を志して友人ヨアンネス・クリュソストモスとともに著名な異教徒の修辞学者リバニオスについたが,クリュソストモスの影響で修道生活に入り,タルソスディオドロスの修道院学校に学んだ (369) 。 383年頃司祭となり,392年頃モプスエスティアの司教に就任。著作はきわめて多く,受肉,秘跡,聖霊などの神学上の問題,聖書解釈の方法,神学論争,修道院制度,聖職についての論述のほかに,ほとんど聖書全般についての注解をしたらしい。ネストリウス派の教会では「神の聖なる友」あるいは「解釈者」と呼ばれて崇敬されたが,キリスト単性論者や正統派からは異端の頭目とみなされ,エフェソス公会議 (431) およびコンスタンチノープル公会議 (553) でネストリウス主義者として非難された。

テオドロス[ストゥディオス]
Theodōros; Theodore Studites

[生]759. コンスタンチノープル
[没]826.11.11. プリンキポ島
東方教会の修道士,ビザンチン修道生活の改革者,聖人。反聖画像破壊論者の代表的存在 (→聖画像論争 ) 。サクディオンの修道院長となったが (794) ,コンスタンチヌス6世の再婚に反対しテッサロニカに追放された (796) 。皇帝廃位後女帝イレネによって呼戻されコンスタンチノープルのストゥディオス修道院長となり (797) ,修道生活の振興につくした。 806年ニケフォロス総主教と争い教会会議で断罪,追放された (809~811) 。皇帝レオ5世が再び偶像破壊政策を実行したのに反対し追放された (816~820) 。ミカエル2世によって許されたが,コンスタンチノープルでは依然聖画像崇拝が禁じられたため,ストゥディオス修道院を離れ,首都の外で余生をおくった。祝日 11月 11日。

テオドロス
Theodōros

前6世紀中頃に活動したサモス島出身のギリシアの青銅鋳造家,金属工芸家,建築家。なかば伝説的な人物で,ロイコスとともに青銅鋳造法の発明者といわれ,また彼とともにサモス島のへラ神殿 (ヘライオン ) の建造にたずさわったといわれる。金属工芸家としてはクリオス王のために銀杯を作ったという。

テオドロス[キュレネ]
Theodōros; Theodore of Cyrene

前4世紀のギリシアの哲学者小ソクラテス学派キュレネ派の人。キュレネ派の特色は快楽を人生の究極目的とし,この快楽の規定を明確にするところにあったが,テオドロスは識見を重んじ,識見に従って自由に合目的的にふるまう能力から生じる喜びを最高の快楽とした。神的存在をすべて否定するところから無神論者と呼ばれた。

テオドロス[アシネ]
Theodōros; Theodore of Asine

4世紀初期の新プラトン派の哲学者。ポルフュリオス,ヤンブリコスに学び,アメリウスの3肢分割法の影響を受けた。プロチノスと同様,概念的把握を断つ超世界的な実体が存在することを主張した。プロクロスの先駆的存在。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「テオドロス」の意味・わかりやすい解説

テオドロス(2世)
ておどろす
Tewodros Ⅱ
(1818―1868)

エチオピアの皇帝(在位1855~68)。国内の群雄割拠の時代に終止符を打った、近代統一国家建設の先駆者として知られる。ソロモンの血を引くと自称する北部の名家に生まれ、幼名をカッサといった。1855年ごろまでに北部を平定、エチオピア教会大主教からネグス(皇帝)の称号を与えられ、テオドロスと改名した。その後、南部の豪族も押さえエチオピアの再統一を果たした。しかし、税制改革、軍隊の統一、奴隷売買の禁止など、激しい近代化政策を実施したため各地に反乱が生じた。同じころイギリス女王に出した親書がイギリス外務省に無視され、回答がなかったことに激怒した皇帝は、イギリス領事を監禁した。しかし、1868年ネイピア将軍の率いるイギリス軍にマグダラで敗れ、自害した。

[青木澄夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のテオドロスの言及

【建築家】より

…この建物は,古代エジプトにおいてもすでに不滅の傑作と見なされていたようで,イムヘテプはやがて神格化され,建築家の守護神と見なされた。古代ギリシアでは,サモスのヘラ神殿を建て,それについて最古の建築書を書いた前6世紀の建築家サモスのテオドロスTheodōros,前5世紀にアテナイのアクロポリスの再建計画で活躍したイクティノスカリクラテスムネシクレス,疑似二重周柱式イオニア神殿の考案者である前2世紀のプリエネの建築家ヘルモゲネスが著名である。ヘルモゲネスの建築書は,建造物のつくり方に数学的法則性を与えたものとして知られ,ローマの建築家たちに大きな影響を与えた。…

【三章問題】より

…〈三章Tria Kephalaia〉(英語ではThree Chapters)とは,6世紀の単性論派論争においてネストリウス的異端の疑いをかけられた3人の神学者の人物と著作を指す。すなわちモプスエスティアのテオドロスの人と著作,テオドレトスがアレクサンドリアのキュリロスに反駁した著作,エデッサの主教イバスIbas(在位435‐457)がペルシアの一主教マリスMarisにあてた書簡である。これはユスティニアヌス帝の勅令(543‐544)およびコンスタンティノープルの第5回公会議(553)で異端とされたが,現在では一方的な断罪であったと考えられている。…

【修道院】より

…もちろん〈ユスティニアヌス法典〉の〈新勅令(ノウェラエ)〉の関係条文もビザンティン帝国の修道院を性格づけるのに大きな役割を果たした。しかし東方で修道院が最も精彩ある姿を示すのはイコノクラスムの時代であったといわれるから,8世紀後半期における修道院への迫害とそれに対する修道士の抵抗,特にこの抵抗運動で主役を演ずるコンスタンティノープルのストゥディオス修道院の院長テオドロスTheodōros(759‐826)の活動と彼が行った修道院改革とは東方修道制の再生の泉となった。もっとも,東方の修道士の仕事が多く修道院内でできるものに限定された点は西欧の修道院との大きな違いであるが,そのなかでは絵画,装飾挿画,写字が重要な地位を占めた。…

【ストゥディオス修道院】より

…伝承によれば,コンスルを務めたストゥディオスStoudiosによって463年に開かれたという。イコノクラスムの時代に迫害で閉鎖されたが,799年に修道院長になったテオドロスTheodōros(759‐826)が再興,イコン擁護派の拠点となった。テオドロスはカッパドキア教父大バシレイオスの修道規則を新たに導入して修道院改革をはかり,この修道院を東方における修道生活の理念を体現するものにしたてた。…

※「テオドロス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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