ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「テオドロス」の意味・わかりやすい解説
テオドロス[モプスエスティア]
Theodōros; Theodore of Mopsuestia
[没]428/429. キリキア,モプスエスティア
アンチオキア学派の代表的神学者。当初法律家を志して友人ヨアンネス・クリュソストモスとともに著名な異教徒の修辞学者リバニオスについたが,クリュソストモスの影響で修道生活に入り,タルソスのディオドロスの修道院学校に学んだ (369) 。 383年頃司祭となり,392年頃モプスエスティアの司教に就任。著作はきわめて多く,受肉,秘跡,聖霊などの神学上の問題,聖書解釈の方法,神学論争,修道院制度,聖職についての論述のほかに,ほとんど聖書全般についての注解をしたらしい。ネストリウス派の教会では「神の聖なる友」あるいは「解釈者」と呼ばれて崇敬されたが,キリスト単性論者や正統派からは異端の頭目とみなされ,エフェソス公会議 (431) およびコンスタンチノープル公会議 (553) でネストリウス主義者として非難された。
テオドロス[ストゥディオス]
Theodōros; Theodore Studites
[没]826.11.11. プリンキポ島
東方教会の修道士,ビザンチン修道生活の改革者,聖人。反聖画像破壊論者の代表的存在 (→聖画像論争 ) 。サクディオンの修道院長となったが (794) ,コンスタンチヌス6世の再婚に反対しテッサロニカに追放された (796) 。皇帝廃位後女帝イレネによって呼戻されコンスタンチノープルのストゥディオス修道院長となり (797) ,修道生活の振興につくした。 806年ニケフォロス総主教と争い教会会議で断罪,追放された (809~811) 。皇帝レオ5世が再び偶像破壊政策を実行したのに反対し追放された (816~820) 。ミカエル2世によって許されたが,コンスタンチノープルでは依然聖画像崇拝が禁じられたため,ストゥディオス修道院を離れ,首都の外で余生をおくった。祝日 11月 11日。
テオドロス
Theodōros
テオドロス[キュレネ]
Theodōros; Theodore of Cyrene
テオドロス[アシネ]
Theodōros; Theodore of Asine
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