1971年に名古屋市で開かれた卓球の世界選手権で米中の選手が出会ったのをきっかけに、冷戦下で敵対関係にあった両国の関係改善につながった動き。会場へ向かう中国選手団のバスに誤って乗った米国人選手に、中国人選手がプレゼントを贈り、米選手が翌日お返しを渡した。これを受け、米選手団は大会後の同4月10~17日に訪中し、
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…頭脳的プレーヤーとして世界に知られ,日本卓球界の黄金時代を築き上げた。現役引退後も,71年名古屋での世界選手権の前年に訪中し,米中国交正常化につながるピンポン外交の糸口をつくりだし,91年の世界選手権ではスポーツ界で初の南北朝鮮統一チーム〈コリア〉結成に尽力するなど,スポーツを通じた国際交流に貢献した。79年から国際卓球連盟(ITTF)会長代理,87年には会長に就任し,用具のカラー化など新機軸を取り入れ卓球の発展に尽くした。…
…さらにいうと,二国間の関係が良好でない場合,スポーツや学術面での文化交流にはじまって,交流が経済やさらに政治の次元にまで波及していくといった場合もしばしばみられる。米中関係の正常化にさいして,1971年春の〈ピンポン外交〉が一役買ったこともよく知られている。
[外交政策の規定要因]
外交政策は国によってさまざまであり,時代によっても様相を異にする。…
…71年,名古屋で開催された第31回大会において中国がアメリカ選手団の招待を申し出,アメリカがこれを受諾して中国訪問が実現した。これは後の日中国交回復,米中国交回復への突破口を開くもので,〈ピンポン外交〉の名で知られている。その後も中国は世界の卓球界の主役を務め,81年の第36回大会で史上初の7種目全制覇の完全優勝を果たし,34年ぶりに地元(天津)で開いた95年の第43回大会でも2度目の完全制覇を達成した。…
…52年に中華全国体育総会が成立したことで,新中国の体育活動の体制ができあがるわけだが,国際的に注目を集めるようになったのは,59年の第25回世界卓球選手権大会(西ドイツ)で男子シングルスに優勝(容国団)したあたりからである。以来,中国卓球は一貫して世界をリードする実力を示して西側世界への重要な窓口となり,71年には米中関係打開の道をつけるなどして,〈ピンポン外交〉なることばを生んだ。 文革期には,スポーツにおいても,勝利第1,技術第1の思想に反対してスポーツを革命化することが叫ばれたが,実際には軍事訓練との結合にとどまり,体育活動は低下した。…
※「ピンポン外交」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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