フォティオス(読み)ふぉてぃおす(その他表記)Photios

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フォティオス」の意味・わかりやすい解説

フォティオス
ふぉてぃおす
Photios
(820ころ―891ころ)

コンスタンティノープル総主教(858~867、877~886)。858年前任者イグナティオスIgnatius(在位847~858、867~877)の後を襲って総主教になったが、俗人(東ローマ帝国の貴族出身の高級官僚)で聖職と関係がなかったことから、ローマ教皇ニコラウス1世は教会法違反だとして彼を破門した。しかしフォティオスは逆に、867年東方の総主教たちに主教会議開催の回勅を送り、そのなかで西方教会慣行および教義問題、すなわち聖霊の発出について西方でニカイア・コンスタンティノープル信条に「子よりもまた」(フィリオクェ)の一句を挿入したことを異端として非難した。この教皇首位権とフィリオクェ問題によって、東西両教会は完全な分離(1054)へと発展したのである。867年皇帝ミカエル3世Michael Ⅲ(在位855~867)の死後、罷免されるが、10年後に復帰。886年皇帝レオ6世Leo Ⅵ(在位886~912)によってアルメニアに追放された。また古典学者としても学識が広く、主著『万巻抄』をはじめ多数の書物を残した。

[山川令子 2018年2月16日]

『プレオブラゼンスキイ著、石川喜三郎訳『総主教フォテイ評伝』(1902・正教会)』『森安達也著『世界宗教史叢書3 キリスト教史Ⅲ』(1978・山川出版社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「フォティオス」の意味・わかりやすい解説

フォティオス
Phōtios
生没年:820ころ-891ころ

ローマ教会と対立したコンスタンティノープル総主教。在位858-67,877-86年。首都の大学で神学,修辞学を講じる学者であると同時に,宮廷に勢力のある高級官僚でもあったが,罷免された総主教イグナティオスIgnatios(在位847-858,867-877)の後任として,俗人でありながら,総主教に任命された。この人事にローマ教皇ニコラウス1世が介入し,〈フォティオスの分離〉として知られる両教会の対立がおこった。フォティオスは,ブルガリアに導入されたラテン典礼と教会慣行を非難,教義面では〈フィリオクエ〉を初めて公の問題とした。彼は政変により2度罷免されたが,在任中にモラビア,ブルガリアなどへの教勢の拡大をはかった。また古典文献学者としては,主著《万巻抄》によって古典の伝承を心がけた。その意味でマケドニア朝ルネサンスの先駆者とされる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のフォティオスの言及

【ニコラウス[1世]】より

…聖人。司教はすべて教皇に直接訴える権利があるとして,訴えによってコンスタンティノープル教会の内紛に干渉し,皇帝が認可したコンスタンティノープル総主教イグナティオスIgnatiosの辞任とフォティオスの登位を認めず,フォティオスを破門(863)。ブルガリア布教をめぐってもコンスタンティノープルと対立,東西両教会分離の第一歩を踏みだした。…

【ビザンティン帝国】より

…スラブ人への使徒,キュリロスとメトディオスはキリスト教布教のためモラビアに旅立ち(863),キエフ・ロシアのコンスタンティノープル襲撃(860)は,ビザンティン政府に,彼らのキリスト教改宗を思いつかせた。コンスタンティノープル教会のこの威勢を背景におこったのが,総主教フォティオスの,ニコラウス1世およびその後継のローマ教皇たちとの対立である(860‐879)。 バシレイオス1世(在位867‐886)から,同2世に至るその後継者たちのもとで,ビザンティン帝国の軍事力は最も伸張した。…

【プロクロス】より

…《クレストマテイア》と題するギリシア文学案内4巻の作者。最初の2巻が9世紀のコンスタンティノープル総主教フォティオスの抜粋によって伝わっている。古代末期に編纂されたこの種の多くの摘要集中,伝存する最古のもの。…

※「フォティオス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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