ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プシェミスル朝」の意味・わかりやすい解説
プシェミスル朝
プシェミスルちょう
Přemyslové
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ボヘミアに栄えた西スラブ人の統一王朝(850?~1306)。オーストリアとの間で中央ヨーロッパの覇権を争った。第2代の侯バーツラフVáclav(在位921~929)は、ドイツ勢力の干渉を排除するために、ドイツの宗主権を承認し、キリスト教(ローマ・カトリック)の普及に努めた。彼は死後、教会から聖者に列せられ、ボヘミアの守護聖人となる。11世紀末のブラティスラフ2世Vlatislav Ⅱ(在位1061~92)は、神聖ローマ皇帝より王位を得、さらに1198年、オタカル1世Přemysl Ⅰ Otakarは、世襲王位を獲得するなど、この王朝下で帝国におけるボヘミアの繁栄の基礎が固まった。1306年、バーツラフ3世Václav Ⅲの死で王朝は断絶。以後ボヘミアではルクセンブルク朝の支配が続く。
[稲野 強]
…プシェミスル朝(900‐1306)のボヘミア王。在位1253‐78年。…
…
[民族王朝の成立]
一方,ボヘミアでは大モラビア国末期の9世紀末にはすでにその支配を離れていた西スラブ諸族が,内部抗争を続けつつ統一の方向に進んでいた。そのなかでチェコ人を中心として諸部族を統合したのがプラハに本拠をおくプシェミスル家で,10世紀末までにはプシェミスル家の手でボヘミアは統一された(プシェミスル朝,900?‐1306)。歴代のプシェミスル侯は,ハンガリー,ポーランドと同様にドイツの圧力と戦いつつ,逆にその力を利用して,国内の君主制の強化・拡大を図った。…
※「プシェミスル朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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