オタカル2世(英語表記)Otakar Ⅱ Přemysl

改訂新版 世界大百科事典 「オタカル2世」の意味・わかりやすい解説

オタカル[2世]
Otakar Ⅱ Přemysl
生没年:1230ころ-78

プシェミスル朝(900-1306)のボヘミア王。在位1253-78年。ドイツ名オットカールOttokar。オーストリアバーベンベルク家の断絶後,オーストリア,シュタイアーマルクなどを奪取し,一方でドイツ騎士団を支援して,東プロイセンを破り,バルト海居城を置くなど,王国の勢力拡大に努めた。さらに神聖ローマ帝国帝位をうかがうが,ハプスブルク家ルドルフ阻止にあう。1278年ルドルフと中欧の覇権を争って戦ったが,モラバ川右岸のマルヒフェルトで敗死した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オタカル2世」の意味・わかりやすい解説

オタカル2世
オタカルにせい
Otakar II Přemysl; Ottokar II Przemysl

[生]1230頃
[没]1278.8.26. デュルンクルート
ボヘミア王 (在位 1253~78) 。オットーカール2世とも呼ばれる。プシェミスル朝最盛期の王。 1251年婚姻によってオーストリア公に任じられる。 1254年および 1266~67年古プロシア人,リトアニア人に対する十字軍を組織して北方領土を拡大し (ケーニヒスベルクの名は彼に由来) ,ハンガリーと戦って 1260年シュタイエルマルクを,1269年カリンティア (ケルンテン) ,カルニオラ (クライン) ,イストリアを獲得。しかしハプスブルク家のシュワーベン伯が神聖ローマ皇帝ルドルフ1世として登位すると,内外の敵が増大し,1276年併合領土の放棄を強いられ,2年後再起を企てたが,オーストリア=ハンガリー連合軍の前に敗死した。

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世界大百科事典(旧版)内のオタカル2世の言及

【チェコ】より

…その結果,プシェミスルの諸侯のなかにはブラチスラフ2世(在位1061‐92)のように皇帝から王の称号を手に入れた者もあったが,それらはいずれも一代限りであった。12世紀末に出たプシェミスル・オタカル1世Přemysl Otakar I(在位1198‐1230)は初めて世襲の王号を獲得し(1198),1212年にはボヘミア王国の独立が正式に承認された。のちにボヘミア王国は実質的にオーストリア・ハプスブルク家の支配下に入るが,王国としての形態は1918年まで保った。…

※「オタカル2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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