改訂新版 世界大百科事典 「ペトラシェフスキー事件」の意味・わかりやすい解説
ペトラシェフスキー事件 (ペトラシェフスキーじけん)
19世紀ロシアの政治的事件。ドストエフスキーが加わったことで有名。1844年ころから外務省の翻訳官であったペトラシェフスキーMikhail Vasil'evich Petrashevskii(1821-66)の家に若いインテリゲンチャが集まるようになり,彼らは45年秋から〈金曜会〉と称して,毎週集まって議論をした。彼らの研究の対象はフランスの空想的社会主義者フーリエの著作や,ドイツの進歩的哲学者L.A.フォイエルバハの著書などであった。メンバーには役人,教師,作家,芸術家,学生,将校など,中小貴族や雑階級出身者が多かった。とくにその中で有名なのは,ドストエフスキーと並んで,《悪霊》のスタブローギンのモデルとされたスペシネフである。48年のフランスにおける二月革命の影響を受けて,金曜会の内部に,より急進的ないくつかの小グループがつくられるようになり,彼らは農民蜂起や秘密文書の印刷,配布を論じるようになった。しかし49年4月13日に密告によってペトラシェフスキーが逮捕されたあと,9月までに252人が取調べを受けた。このうち123人が予審委員会にまわされ,その中でさらに22名が軍法会議にかけられた。その結果21名に死刑の判決が下され,12月22日,ペテルブルグのセメヨノフスキー練兵場で刑が執行されることになった。直前になってあらかじめ作られていた筋書どおりに皇帝ニコライ2世の命により,刑一等減じられて,一同はシベリア徒刑や,兵卒として辺境の常備隊に送られた。
執筆者:外川 継男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報