フーリエ(読み)ふーりえ(英語表記)François Marie Charles Fourier

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フーリエ」の意味・わかりやすい解説

フーリエ(Jean Baptiste Joseph Fourier)
ふーりえ
Jean Baptiste Joseph Fourier
(1768―1830)

フランスの数学者。オーセルの仕立屋の子に生まれ、家は貧しく、9歳までに両親を失い、孤児になり、オーセル寺院のオルガン奏者に引き取られた。のちに修道院が管理していたオーセル陸軍学校の予備校に入学、ここで数学に興味をもち、以後、数学の勉強に打ち込みだした。彼は将校を希望していたが孤児はなれず、そこで修道院の見習い修道士になった。そのころからフランス大革命が始まり、フーリエは修道院の仕事を辞め、1789年パリに出た。このとき彼は、自分の研究をまとめた数値方程式の解法についての論文をパリ科学アカデミーに提出したが、革命のため論文は公表されなかった。革命に共鳴し、ロベスピエールの下に行ったが受け入れられず、しかたなく故郷に帰ったが、ここで短期間、逮捕された。

 その後、革命政府が高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)を設立し、学生募集をした。フーリエはこれに協力し、彼自身も新しい学校で学ぼうとしたが、学校は彼を助手に任命した。この学校は半年間ほどで閉校となり、新たに理工科大学校(エコール・ポリテクニク)が設立され、彼はこの学校の助手となり、講義も行ったが、その講義のすばらしさは、今日まで語り伝えられている。

 1798年フーリエはモンジュとともにナポレオンエジプト遠征に従い、エジプトにできたアカデミーの会員になり、エジプト研究とともに数学についても研究し、1801年フランスに戻った。1802年にはイタリア近くのイゼール県の知事に任命された。やがてナポレオンが没落すると、彼は新しい政府に忠誠を誓い、知事の仕事を継続するが、ナポレオンがふたたびフランスに戻るとナポレオン政府につき、1815年5月パリに戻った。この年(1815)の10月ナポレオンはセント・ヘレナ島に流された。1816年パリ科学アカデミーはフーリエを会員に選んだが、ルイ18世はフーリエの無節操ぶりをみて会員にすることを拒否、翌1817年にようやく認めた。このときからフーリエはアカデミーの仕事、研究、後進の指導にあたり、1826年アカデミー・フランセーズの会員になった。

 フーリエは知事を務めていた1807年に「熱の解析的理論について」の論文をアカデミーに送った。1811年には熱の伝導についての研究でアカデミー賞を受けた。これらの研究は1822年に『熱の解析的理論』として刊行された。フーリエは偏微分方程式を解く変数分離法を詳しく研究し、ここから任意関数の三角級数展開の思想、さらに今日のフーリエ級数の概念へと進んだ。続いてこれらの級数の連続な場合への移行によって、今日のフーリエ積分の概念に達した。一方、数値方程式の解法についても研究し、著書を出版した。フーリエの仕事は、彼の友人で、彼の下で研究していたスチュルムとフーリエの友人でドイツからきていたディリクレによって受け継がれ、発展させられた。

[井関清志]


フーリエ(François Marie Charles Fourier)
ふーりえ
François Marie Charles Fourier
(1772―1837)

フランスの空想的社会主義者。裕福なラシャ商人の息子としてブザンソンに生まれる。7歳のとき商業が人を欺く術(すべ)であることを知り、商業への憎悪を固めた。しかし破産したため20歳でリヨンの商店の外交員となった。1798年パリのリンゴの価格がルーアン地方に比べ異常に高いことを知り、「産業機構の根本的混乱」に気づく。4年にわたる研究で彼独自の理論を築く。以後彼は、几帳面(きちょうめん)な使用人であると同時に人類の救済者たることを確信した誇大妄想家となる。1800年以後非公認仲買人などをしながら、最初の著作『四運動の理論』(1808)や主著『家庭的農業的協同社会論』2巻(1822)を刊行。エンゲルスは、彼を評して、「現存の社会関係を非常に鋭く、機知と諧謔(かいぎゃく)をもって批判した」(「フーリエの商業論の一断片」)と書いた。フーリエは、所有の細分化と商業的寄生とに近代の「産業的無政府性」の原因を帰した。彼は「商業の略奪行為」を告発する。それは、計画破産、買占め、投機、商人の過剰存在のことである。近代社会にあっては、細分と浪費とにより「協同社会」の4分の1の生産力しかなく、しかも貧困が豊富そのものから生まれる。フーリエは、細分化した近代産業では「いっさいが悪循環である」とみなす。このような体制は力によってしか維持されない。国家がその主要な手段で、道徳がそれに介入し情念を「閉塞(へいそく)」する。

 フーリエは神が欲した自然秩序を追求する。精神界のそれは情念引力とよばれる。「文明」を「産業的封建制」にした競争的闘争の制度を、情念引力に基づく協同社会に変えること、これが彼の目的であった。1825年ころ財政難に陥った彼はパリを去って再度リヨンで店員となる。このころコンシデラン、ペラランCharles Pellarin(1804―1883)などの弟子が集まってきたが、彼に必要なのはファランステールと称せられる理想社会の設立基金を提供する金持ちであった。

[古賀英三郎 2015年6月17日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フーリエ」の意味・わかりやすい解説

フーリエ
Fourier, Joseph

[生]1768.3.21. オーゼール
[没]1830.5.16. パリ
フランスの数学者,物理学者。フルネーム Jean-Baptiste-Joseph, Baron Fourier。初め地方の陸軍学校に入学。1794年に創設されたエコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)の第1期生となり,翌年同校の教師となる。1795年にエコール・ポリテクニクが開設されたので講師陣に加わり,ガスパール・モンジュらと親交を結ぶ。1798年にナポレオンのエジプト遠征に従い,司政官となり,工学上の助言を行ない,またエジプト学に専念した。1801年にフランスに帰り,イゼールの知事に任命され,1814年までその地位にあった。1815年セーヌの統計局長に任命された。おもな業績は熱伝導率の研究で,1807年に着手し,1822年に完成した。彼は固体中の熱伝導が無限級数(→フーリエ級数)で表されることを示し,19世紀の物理数学および実変数の関数の研究に大きな影響を与えた。また,次元解析や温室効果に関する研究もある。男爵(1809),科学アカデミー会員(1816),アカデミー・フランセーズ会員(1827),医学アカデミー会員(1827)。主著『熱の解析理論』(1822)。

フーリエ
Fourier, (François-Marie-) Charles

[生]1772.4.7. ドゥー,ブザンソン
[没]1837.10.10. パリ
フランスの空想的社会主義者。仲買人をしながら新聞,雑誌などによって独学。 1808年主著『四運動の理論』 Théorie des quatre mouvements et des destinées généralesを著わし理想社会を描いた。徹底した社会批評家として初期マルクス主義者に影響を与え,二月革命期のフランスなどでその理論の実現が企てられた。社会が個人を規制するのではなく,個人が満たされる社会を構想した独特の社会主義のなかに,社会保障,分業,女性解放,疎外など 20世紀社会の重要問題の先駆的洞察がみられる。

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